幻影に舞う白銀

Web novel GENEI NI MAU HAKUGIN

第四章/幽客は何処に咲く_08

北大西洋を進んで八日。客船は、かつて同じ海域で没した、さる豪華客船を偲んで汽笛を鳴らした。哀悼と敬意、そして航海の安全を祈願し、長い白波の尾を穏やかな大海原に描いていく。
しかし、安全な航海は作戦失敗へのカウントダウンでもあった。
刻一刻と東海岸に近づく船を止めることも、乗員全員の身体検査を行うこともできない。乗船しているであろうオーキスを刺激しない『穏やかな航海を続ける』ことは、皮肉なことにシルヴィアらの精神を疲弊させている。

夜。月明かりがこぼれるオープンテラスには、昼間ほどの賑わいはない。
シルヴィアは広場を横切り、バックヤードの扉を開く。通路にところ狭しと並んだ乗務員用の個室へ足を向ける。
忍び込んだ部屋の中には、乗務員用の制服姿の万梨亜が居た。船内では動きを察知されないよう、タロット使い五人で集まることはせず、こうして各自連絡を取り合っている。

「今のところ、ミレイユ達から目立った情報はないらしい」

「そうですか……。実はこちらも、格納庫の一件以来、特に何も……」

格納庫に発生したダエモニアを倒して以来、それぞれ立場の違う五人で船内をくまなく捜索したが、ダエモニアも不審人物も見当たらない。元より、格納庫での事件も、オーキスに関連があるとまでは断言できないでいる。

「やはりか……。もっとも、あのダエモニアとオーキスの関連までは分からないがな」

そう告げたシルヴィアに、万梨亜は不安げなトーンで尋ねた。

「もしかして、空振りでしょうか……」

シルヴィア達は、オーキスが移動に定期航路の客船を使うはずだと読んだ。しかし、それは単なる予想であり、確証などどこにもない。オーキス絡みの事件が分の悪い賭けになってしまうのはこれまでにもあった。
シルヴィアは、女学院の時にも味わった焦りを心の中で噛み殺し、答える。

「アメリカの部隊から連絡はないんだ。まだ可能性はある」

「そうですよね……」

万梨亜は自分に言い聞かせるように頷く。
個室の小さな椅子に座り、シルヴィアは肩を落として嘆息する。ところ狭しと船の中を動き回った疲労が、睡魔となって押し寄せる。そんなシルヴィアに、万梨亜はティーカップを差し出した。

カップの中で踊るベルガモットティーが、潮の匂いで麻痺しかけていた嗅覚と味覚を呼び覚ました。長めに注出されたことによるどっしりした渋味と芳醇な香りが、重くなるまぶたを強引にこじ開ける。
紅茶を飲んで温かな息を吐いたシルヴィアに、万梨亜は手を握って告げる。
万梨亜の瞳は潤んでいた。

「……シルヴィアちゃん。ごめんね」

「ど、どうした?」

「シルヴィアちゃんには、ずっと守ってもらってばかりだから……。この間だって……」

涙はせき止められたとしても、震える声色までは隠せない。
気持ちを伝える言葉を探す万梨亜の声を、そしてその心と体をシルヴィアは受け止める。

「でも、ね……。私、シルヴィアちゃんのことが心配なの。とても、つらそうで、迷っているみたいで……」

「……」

シルヴィアに体を預けて、万梨亜は小さく震えていた。
固く結ばれた手の甲に、温かな涙がこぼれ落ちる。もうこらえることはできなかった。嗚咽を抑えることもせず、万梨亜は自分の感情を爆発させた。

「シルヴィアちゃんを助けたい……。楽にしてあげたいのに、でも……。私には何もっ……!」

絡み合った指先の隙間に、温かな涙が染みこんでいく。その手を柔らかくほどき、シルヴィアは取り出したハンカチで万梨亜の目元を拭った。そして、今度は万梨亜の手を強く握りしめ、シルヴィアは告げる。

「心配は不要だ。私は大丈夫だから」

顔を上げた万梨亜と、目と目が合った。
泣き腫らして頬を上気させた万梨亜を安心させようと笑顔を作り、シルヴィアは個室の扉を薄く開けた。廊下に誰も居ないことを確認して、物音を立てないように体を滑らせる。
部屋を後にしようとした時、シルヴィアの背中に万梨亜の声がした。

「そんな顔で、大丈夫なんて言わないで……」

バックヤードを去ったシルヴィアは、化粧室の鏡に映る顔を眺めていた。去り際に万梨亜に見せた笑顔を再現しようとしても、うまくいかない。そもそも、笑顔とはどんな風に作るものであったのか、今となってはもう分からない。
張り詰めた緊張は、表情だけではなく、感情さえも硬直させてしまう。
シルヴィアは、気持ちを切り替えようと顔を洗った。つい先ほど、万梨亜にハンカチを貸してしまったことすら忘れて。

その時、本部との連絡用に忍ばせていたスマホが鳴動した。有事の時以外は連絡を取らないことになっている。つまりその連絡は、別働隊がオーキスを発見したということだ。
電話に出る必要はなかった。電話を取らなくとも分かることだ。
それでも、着信はむなしくシルヴィアの胸元を揺らし続ける。胸ポケットから取り出したスマホの画面には、見覚えのない番号が表示されていた。
シルヴィアは通話ボタンを押し、耳元に近づける。ブツブツと聞こえるノイズに、人間の吐息が混じっていた。

「誰だ?」

シルヴィアの問いかけに答えるように、音が大きくなる。そして、女性の声がする。呼吸もままならない中で絞り出される言葉に、耳を傾ける。

『ごめ……ん……。失敗しちゃ……た……』

短いその言葉で、シルヴィアは声の主を、そして彼女がどのような状況に置かれているのか察してしまった。
シルヴィアはポケットを漁り、イギリスの食堂で渡されたコースターの裏書きと、表示された番号を見比べる。
違っていてほしい。何かの間違いであってほしい。
だが、そんな願いは届かない。

「……クリスティンか?」

シルヴィアに返ってきた言葉は、希望を裏切るものだった。

『……次は、あなた。気を、つけっ……』

「クリスティン? おい、どうしたんだクリスティン!」

応答はなかった。
電波の不安定さを伝えるだけのノイズが続き、ブツリと通話が切れた。
シルヴィアは、クリスティンの番号にコールバックする。周期的な呼び出し音が鳴る。こんな音は早く鳴り止めと、声を聞かせろと念じる。
ここがアストラルクスならば、強く念じれば具現化するだろう。想定される最悪のケースだって、覆すことができるだろう。

だが、ここは物質世界だ。
人間のいかなる希望も、死に塗りつぶされてしまう非情な世界。

電話は、無機質な音声ガイダンスに繋がった。
抑揚のない機械的な声は、この電話番号は現在使われていないと無責任に告げ、切れる。
無意識のうちに下ろしていた手の中で、再びスマホが鳴動した。

『し、シルヴィア! も、もちつけ、じゃなくて落ち着いて聞いてくれ、うちの隊長からの連絡がレグザリオでメーガンがクリスティンで!』

電話口の雫は明らかに取り乱していた。クリスティンという言葉に、先ほどの着信内容がよぎるも、まずは雫の連絡内容を優先する。

「落ち着け、何が言いたい」

『す、すまん! クリスティンが対消滅した!』

「対消滅だと……!?」

対消滅。
それは、ドッペルゲンガーが殺しに来るという根拠のない噂話。
だが、クリスティンは対消滅した。ダエモニアに感染した人間の末路を思わせる、まるで、この世界に最初から存在していなかったかのように。

『とりあえずそれだけだ! こっちはこっちで忙しいからもう切る!』

「おい、ちょっと……!」

返答する間もなく電話は切れる。それからしばらく連絡を待ったものの、力なく下ろされた手の中が、振動することはなかった。

シルヴィアは、鏡に映った自分の姿を見る。白銀の髪は満足な手入れもできず乱れている。顔の水滴は拭いきれずに滴り落ち、ブラウスを汚す。その胸元のボタンは、彼女には珍しく開けられていた。その姿と硬直した表情が、自らが意識の外へと追いやっていた疲れを思い起こさせる。

化粧室の照明が瞬いていた。
機材の故障か、はたまた電球や蛍光灯が切れかけているのか。点滅を繰り返す光によって、鏡の中のシルヴィアも、明暗を繰り返す。鏡映しの姿はときに白銀にきらめき、ときに暗影に染まる。
シルヴィアは、クリスティンの言葉を反芻する。

『……次は、あなた。気を、つけっ……』

ドッペルゲンガーとは、自らの鏡像であり、影だ。
それが、本物の存在を消しにやってくる。

「何かが迫っている……」

船上デッキへ出たシルヴィアは、船の後方に広がる白んだ水平線を眺めた。
夜が明けようとしている。冷たい早朝の空気に当たり、不審人物捜索に戻ろうとした――
その時、寒気がした。

体を冷やしたがための寒気ではない。言いようのない憎悪と怨嗟と嫌悪感が込められた、タロット使いでしか感じ取れない狂気の気配、ダエモニア。
途端に、あちこちから人間の悲鳴と絶叫、笑い声が聞こえてくる。それだけではない。船は揺れ、速度を上げる。

シルヴィアは、叫び声のする方へ走り出した。




TOP