幻影に舞う白銀

Web novel GENEI NI MAU HAKUGIN

プロローグ編/第一話 『白銀の黎明』

ロンドンはその日も霧に包まれていた。
ただの霧であればいいのにと願っても、私の願いは届かない。

「まったく、何度現れれば気が済むんだ!」

古めかしい煉瓦造りの裏路地を走り抜け、霧の発生源を追いかける。
数は一、小型クラスのダエモニア。人間の負の感情につけ込み宿主を喰らう異形の怪物。
元は同じ人間だとは思えない無数の触手をたなびかせながら、裏路地から裏路地へと行方をくらませていく。
焦れったい相手だが、私の敵ではない。

「来いッ!」

走りながら両手に思念を送り、頭の中でゆらめくエレメンタルタロットの幻影を固定化、戦うための武器へと変える。
何も持っていなかった両手には白銀に輝く正義の大剣が収まり、体が急速に軽くなる。
さあ、私の仕事を始めよう。

遥か前方を行くダエモニアに急接近し、蠢く触手のうち一本を叩き切る。
手応えはない。ダエモニアが発した苦悶の不協和音が鼓膜を響かせるも、攻撃の手を緩めはしない。

私は白銀の大剣を振りかぶり、もう一本の触手へと正義の剣戟を振り下ろす。
その時だった。

「なっ!?」

大剣は動かなかった。断ち切ろうとする意志とは裏腹に、両手は柄を握ったままぴくりとも動かない。
白銀の剣は死角から現れた触手に絡め取られていたのだ。
簡単なことだ。すべてはダエモニアの浅はかな策略だったのだろう。

いくつもの路地を縦横無尽に駆け回ったダエモニアは、触手を四方八方に伸ばしながら追撃を免れる。
伸ばされた触腕を裏路地じゅうに張り巡らせ、まるで蜘蛛の巣のように私を追い詰めていた。
しかし、この程度の策に堕ちるほど私は甘くはない。

「あまり侮らないでほしいものだな」

柄を握る両手に、再び思念を注ぎ込む。輝きを失いつつあった大剣が眩いばかりの光を放ち、剣に巻き付いていた触腕をまとめて焼き払う。
被害を最小限に抑えるため攻撃の手を潰し、無力化してから殺す。

「悪いが諦めてもらおうか!」

攻撃手段を失い怖じ気づいた小型のダエモニアは、再び脱兎の如く逃げ出していく。
駆け出した私の頭上から、何者かの声が響いてきた。

「右だ! 右へ走れ!」

声の主は分からない。だが、ダエモニアの住むアストラルクスに存在できる以上、声の主を確認する必要はない。
指示の通りにダエモニアとは違う方向へ走る。煉瓦の路地を抜け、石畳の通りへ出たところで再び頭上から声が響く。

「左へ突っ走れ!」

エレメンタルタロットの力で軽くなった体を滑らせるように、石畳の路地を走る。
より一層濃くなっていく霧が視界を遮り、やがて自分がどこを走っているかも分からなくなる。
だが、ダエモニアの位置は分かる。声の主も、恐らく私と考えは同じ。

「止まれ、剣を構えな!」

ダエモニアが近づいている。
次第に濃くなる空気を吸い込み、息を殺す。
迫り来るダエモニアを想像しながら、濃霧の中で白銀の剣を高く掲げた。

「叩っ斬れ!」

濃霧の中を走っていたダエモニアに、白銀の切っ先を振り下ろす。
待ち構えているとも知らずに目の前を横切ったダエモニアは、けたたましい不協和音を響かせ、消えた。
目では確認することができない。ただ、幾度も味わった確かな手応えだけは、柄を握りしめた両手から全身に伝わってくる。

「悪く思うなよ」

大剣のイメージを消し去り、高ぶった神経を落ち着かせながら全身に走る気怠さを受け入れる。
ダエモニアを倒したことで濃霧はゆるやかに晴れ、磨りガラスを通したような景色が視界に入ってきた。
仕事は終わった。

「いやー、見事だよ。お疲れさんお疲れさん」

霧の中から、まばらな拍手とともに現れたのは、長身の女性だった。
私を労うようでいて、そんなつもりはさらさらないとでも言いたげな態度に見える。

「……一応、協力に感謝する。私の名前は――」

「分かってるよ。お前はシルヴィア、正義のタロット使いだろ?
私はヴァネッサ・ディ・ファルコーネ。一番隊の隊長って言えば分かってもらえるか?」

女性は身分証代わりといわんばかりにエレメンタルタロットを見せる。
長方形のタロットには、威厳に満ちた皇帝のアルカナが描かれていた。

「つまり、ファルコーネ隊長自ら私に接触しに来た……のですか?」

「あー、堅っ苦しいのはやめてくれ。全身かゆいのなんのって!」

ファルコーネ隊長――いや、ヴァネッサ隊長は皇帝のイメージには似つかわしくないほど軽薄に笑い、懐から航空券を取り出してみせた。

「シルヴィア、アメリカのセフィロ・フィオーレ本部からお前に招待状だ。こんな所で油売ってないで世界へ目を向けろとさ」

セフィロ・フィオーレは、レグザリオによって創設されたタロット使いの戦闘組織だ。隊長を名乗る彼女だけでなく、私もロンドン支部の一員である。

「……」

本部へ私が呼び出される意味は、容易に察しが付いた。
漸次対応では埒があかないと判断したレグザリオ首脳部は、長きに渡ったダエモニアとの戦いに、一気に片をつけるつもりなのだろう。
大量の戦力を投入し、ダエモニアを一匹残らず殲滅するという従来通りの方法で。

「詳しい説明は向こうで聞いてくれ。イヤなら無理強いはしないけどな」

説明など必要ない。ダエモニアは悪だ。弱みにつけ込み、人間を怪物へと変えてしまう倒すべき敵だ。
やつらを見逃せば人々は不幸の底に落ち、世界は恐慌のただ中に落ちていくだろう。そんなことは歴史を紐解いても明らかだ。

だから、ダエモニアは殺さなければならない。
たとえそれが人間を殺すことと同義だったとしても。
本来は守られる立場にあった者だとしても。

私はそうやって、正義のエレメンタルタロットの力をふるい、ひとりの命と大多数の命を天秤に掛けてきた。
天秤に掛け、いつでも少数を殺し大多数を救ってきた。
間に合わなかったこともあった。力及ばず、唇を噛んだ日もあった。
それでも、より多くを救うために私は戦った。
すべては人々と、そして世界を守るために。

「私宛てだと言うのなら、とっととよこしたらどうだ」

ヴァネッサ隊長が差し出したチケットに手を伸ばした瞬間、これまでに始末してきたダエモニアの姿が脳裏を掠める。
不協和音の断末魔が頭の中で鳴り響き、私を責め立ててくる。
あの無機質は叫びが、頭の中で人間の言葉へと変わっていく。
何が正義だ、人を殺して正義を名乗る、偽善者の殺人鬼め。

それでも、手を引くわけにはいかなかった。
私たちタロット使いが死ぬまで殺戮の罪咎を背負い続けるように、ダエモニアに憑かれた人を悲劇から救い出す手段は存在しない。

多くを救いたいのなら、小さな命を犠牲にせよ。
他に手だてがない以上、それが私の世界に対する責務であり、私の正義だ。

「いいのか? 受け取っちまって。悩みがあるなら早めに言えよ?」

そう言いながらもニヤニヤと笑う隊長には、悩みを聞いてやるつもりなど毛頭ないだろう。
全てを見透かしているような態度は気に食わないが、先ほどの件もあるので私は沈黙を返し、チケットを奪い取る。

「ま、私はどっちでもいいんだけどな」

汚れた手が掴んだチケットは、アメリカ行きを示していた。
帰りのチケットはない。
一度ここを発てば、霧に乱反射したロンドンの朝焼けもテムズ川を渡る汽船の往来も、しばらくは目にすることができないだろう。
いや、見納めになってしまうかもしれない。

「じゃ、フライトまでに身仕舞いでもすることだ。私は先に行ってるから」

手をひらひらさせて立ち去っていくヴァネッサ隊長に無言の別れを告げ、路地裏から見える狭い空を見上げる。
私は白銀の朝焼けを見ながら、しわくちゃになった航空券を握りしめた。




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