幻影に舞う白銀

Web novel GENEI NO MESSIAH

最終章 幻影のメサイア/08

色のない、色にあふれた場所。
温かくも冷たくもあり、感覚すらない場所。
ひとつあって、ひとつもない場所。
無限の可能性が、発散と収束を繰り返す場所。

――アイオーン。

認識した瞬間、世界を制御できるかもしれないと気づいた。
まずは世界に天と地を作った。足場が欲しかった。
暗闇の世界に光をもたらし、天光で大地を照らした。
自分が一番想像しやすい――シルヴィア・レンハートの姿を大地の土くれから作り出した。
すべてがそのようになった。

「アイオーンへ至ることをアセンションと呼ぶ、か。数奇な体験をさせてくれるものだ」

自らの記憶から再現した地――英国郊外、湖水地方の草原の中にシルヴィアは佇む。
身体はもはや土くれではない。シルヴィアはアイオーンの世界でも、現実と同じ姿を獲得していた。一方、生き写しの姿は待てど暮らせど現れなかった。
何故なら生き写し――かつてのシルヴィア自身――には、己の拠り所となる信念がない。いや、ブレていた。そのような半端者ではアイオーンには立てないのだ。
何故ならこの場所は、神にも等しい場――創世の舞台だから。

「彼女が私との接触を避けたのはこのため、か」

アイオーンでの対話になれば勝ち目はない。そう判断したのなら、生き写しが逃れようとしたのは自明のことだ。
だから。
シルヴィアは生き写しを想う。当時の姿をイメージし、大地の土くれから対話の相手を作り出す。対話を避ける相手を引きずりだし、土くれの人形の中に【正義】を押し込める。これで彼女は逃げも隠れもできない。
シルヴィアの為すべき対話が始まろうとしていた。

「白金ぎんかによれば対消滅は『自身との対話』だ。かつての弱い自分に打ち克つことで、元の世界へ戻ってくることができたと言う」

シルヴィアは創造したばかりの生き写しに視線をやった。
怯えたふたつの瞳がシルヴィアを見つめている。

「人は過去との決別を望むことがある。かつての失敗を悔やみ、なかったものにしようとする。あの時、あのような行動をしていなければ。後悔の念は、生きている限り積み上がる」

脳裏に浮かんだのは、シルヴィアが助けられなかった人々の姿だった。【正義】を奪い合った候補者達、女学院の少女達、ダエモニア被害の犠牲者、そしてオーキス。
シルヴィアは彼らを救えなかった。正義を謳いながら見殺しにしてきた。叶うことならば過去をやり直したい。そして救える限りに救いたかったが、願いは叶うべくもない。

「だが、過去があるから現在がある。私があるのは数々の失敗があったからだ。ならば、後悔まみれの過去にだって価値はある」

生き写しは目を見開いた。予想に反した言葉だったからだろう。

「かつての私よ。私は、私自身を認めよう。過去の自身と決別せず、すべての後悔と罪を背負おう。未来を共に生きてくれるか、シルヴィア・レンハート」

生き写しの返事はなかった。

「多少、歯が浮くような台詞になってしまったな。ミレイユから借りた本を読みすぎてしまったか。しかも、自分を相手に……」

どこかむず痒さを感じて頭を掻いたシルヴィアに、生き写しはゆっくりと歩み寄ってくる。湖水地方に吹くやや湿った風が、二人分の銀の髪を揺らしていた。

『……お前が私を認めるならば、共に生きようと思う』

差し出された手は血に染まっていた。血塗られ、汚れた過去をなかったことにはできない。正義の風上にも置けぬ行いを正当化することはできない。
それでも、先に続く一生を賭して清算することはできる。

「そうあってくれると私も嬉しいよ」

シルヴィアは、生き写し――シルヴィアの手を握った。過去と和解したシルヴィアの意識は、瞬く間にアイオーンを離れた。

*  *  *

「早かったじゃないか、シルヴィア」

対消滅を終えてアストラルクスに帰還したシルヴィアを迎えたのはヴァネッサだった。万梨亜のフェンリルはもう居ない。すべては遅かったらしい。

「遅きに失した、か」
「ああ、そもそも私らは周回遅れだ。初めからこっちにボールはない」

やはりヴァネッサは真相を知っている。確信したシルヴィアは、対消滅前に告げられた条件を問う。

「第二の条件は何だ」
「それもクリアだ。お前さんが第一の条件を果たした時点で目的は達せたよ」

言うと、ヴァネッサは白木の鞘から得物を抜き切った。

「こいつは、私が部下にしてやれる最後の仕事。お前さんを正義部隊の……いや、枠に囚われない存在にする、昇進を賭けた人事考査、私からの卒業試験だ」

シルヴィアは目を見開いた。驚いたのだ。
ヴァネッサと戦うことではなく、彼女が何故そんな発言をしたのかという点において。

「仮に私が勝ったら引退でもするつもりか?」
「ハハ、戦ってもないのに勝った気で居るたあね。ま、ここで剣を納めるようじゃ部隊長の看板はやれんな」

哄笑。豪快に笑って、ヴァネッサは続ける。

「隠居とか老い先短いなんて話じゃない。優秀なヤツには能力に相応しい場を与えてやろうってだけだ」
「買いかぶりすぎだ」
「んなこたない、お前さんの活躍は誰よりも見てきた。事件を探り真相に辿り着いた。言いつけ通り部下も護った。そうだろう?」

シルヴィアは白銀の剣をイメージする。アイオーンと化したことで、剣はいっそう力強く輝き、握る手にも力が宿っていると分かる。血塗られた過去と和解し、未来を共に生きると決めたからだ。

「彼女らに仇なすことが目的なら、喩え貴女だろうと斬る。私は自分の信じる正義を貫く」
「なら衝突は避けられんね。なんせこの戦いは全員がアイオーンになるまで終わらん」
「何を知っている?」
「少し頭を捻れば分かるだろうよ」

何故メーガンはレグザリオと内通していたのか。何故エティアはそれを黙って見過ごしたのか。何故エティアは身を挺してまで太陽あかりをクレシドラから救ったのか。
この騒動が――そしてこれから起こるアリエッティの救世計画がシルヴィアが脳裏に描いた通りならば、ヴァネッサの発言はすべて真実になる。

これまでのすべてのピースを繋ぎ合わせ、シルヴィアは静かに嘆息した。
世界も、人々も、部下も、シルヴィアにはもうどうすることもできない。

「……世界を救う鍵は、私にはないようだな」
「ああ、ここで行き止まりだ。鍵は今、太陽あかりが持っている。私らは世界の行く末を特等席で見守ることしかできんのさ」

既に手遅れだった。その事実がシルヴィアの胸を締めつけた。
対消滅を狙ってはいけなかった、対消滅に抗わなければならなかった。
そうした後悔の念をかき消すように、ヴァネッサは笑う。

「自分を責めんなよ。今回ばかりはお前さんじゃどうにもならん。仮に初めから真相に気づいていても、全く同じ行動をしただろう」
「望みはあるのか? レグザリオの目論見から世界を救えるのか?」
「どこにだって希望の芽はあるもんさ」
「……答え合わせをさせてくれ。『アリエッティの救世計画』について」

「分かる範囲で答えてやるよ」と笑うヴァネッサに、シルヴィアはひとつだけ尋ねることにした。

「太陽あかりは、世界を救えるか?」

ヴァネッサは黙した。代わりに、自身の胸元――心臓のあたりに親指を突き立てる。
『自分の心に聞け』。すなわち、わずかな期間ながらも先輩として指導した部下を信じられるかどうかということだ。

「……ならば、後は彼女に任せよう」

太陽あかりは強いタロット使いだ。
最初期よりは力強く成長したものの、戦力としてはまだ新人の域を出ず、年齢ゆえに打たれ弱い部分もあり、かつ少し抜けている。だが、彼女は自信の弱さをしっかり受け止め、過去を立ち切ることなく背負っている。

――もう二度と、冬菜のような子を出さない。

あかりはもう、過去の自分自身と向き合い結論を出している。
人間の弱さを知り、自らが置かれた境遇に悩み、それでも生きようと決意した彼女ならば、後悔しない決断を下すことができるに違いない。

「ヴァネッサ。どうやら私は、まだ貴女から学ぶことがあるようだ。卒業試験は白紙に戻してもらおう」

苦笑したシルヴィアに、ヴァネッサはあからさまに閉口した。

「謙遜は美徳ってか? やめてくれよ、自分より優秀な堅物を部下にしとくのはこりごりなんだ。お前さんはもう一人前の、未来の部隊長だよ」
「頑固だな、飄々と生きているものだとばかり思っていたが」
「それはお互い様だろ?」
「そうだな」

告げて、シルヴィアは手に力を込めた。どうあってもヴァネッサは退くことはない。一度決めたら最後まで実行する人間であることは長年の付き合いで分かっている。一方でシルヴィアも、自身の頑固さは痛いほど知っている。
そしてまた、ふたりは知っている。頑固と頑固がかち合ってどちらか片方の道理しか通せないとしたら、どうやって解決を図ればよいか。一番手っ取り早くて後腐れのない、唯一無二の解決法を。
上司と部下は得てして似るものだ。そう考えると少し可笑しかった。

「さて、前々からお前さんと手合わせしたかったんだ。上司と部下じゃなく剣士としてな。ひとつハデにやり合ってみようじゃないか」

ヴァネッサの表情から笑みが消えた。善でも悪でもない、ただ強さを求める剣豪の殺気がシルヴィアを捉える。普段であれば――ダエモニアに対してさえも――向けられることのないそれは、彼女がシルヴィアを好敵手として認めた証左だ。

「なにが卒業試験だ。建前など用意せず、素直に戦いたかったと言えばいいだろうに」
「こんな機会でもないと本気の斬り合いはできんだろう? 真剣勝負を断るなんてつまらん冗談はやめてくれよ」

事態を打破することができるのは、生き残っている太陽あかりのみ。シルヴィアや他のタロット使い達にできることはもう残されていない。
シルヴィアは生唾を呑み込み、渇いた喉を湿らせた。

「世界の行く末を見届けるだけというのも退屈に過ぎる。お相手しよう」
「我ながらいい友を持ったもんだね」
「正義によって鍛えられたこの剣術、お目にかけよう」

かくして、真剣勝負が幕を開けた。ふたりを邪魔する者は存在せず、ふたりが救世計画を邪魔することもない。世界の行く末を眺めることしかできない、用済みとなったアイオーン同士だ。
もはや背負うべき肩書きはない。セフィロ・フィオーレの責務からも解放されている。上下関係すらも消えた今、ふたりは純粋な、強さを求め続ける剣士だ。
剣を極めた好敵手同士の鍔迫り合いが、アストラルクスに響いていた。




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