余津浜市内、商業地区の一角。ビル倒壊事故の影響を受けて、警察による交通規制が敷かれていた。
だが、規制線の向こうを覗き見る野次馬達、瓦礫をかき分ける警官隊、現場上空を旋回する報道ヘリでさえ事故の真相に辿り着くことはないだろう。物質世界に暮らす人々が理解できるのは『街が破壊された』という結果だけだ。
人混みから少し離れた場所で、あかりはぎんかに尋ねた。
「調べるって、ここを?」
「調査の基本は現場百編って言うやろ?」
そう告げて、二人は現場に目を遣った。規制線テープとブルーシートで覆われた事故現場は、厳重に出入りが制限されている。
「もしかして、あそこに忍び込むつもりじゃないよね?」
「当然や! 忍び込まずに堂々と行くで!」
「だ、ダメだよ! 怒られちゃうよ!?」
腕を掴んで引き留める。だが、止められたぎんかはきょとんとした顔であかりを見つめる。そして数秒後、あかりの思考を見抜いてか――
「ちゃうちゃう。堂々と行くってのは、コレを使うってことや」
懐から【節制】のタロットを取り出してぎんかは笑った。意味を図りかねるあかりも、とりあえずと自身の【太陽】を取り出す。昼間でもぼんやりと光を放つエレメンタルタロットを掲げて、ぎんかは宣言した。
「あかり、あの装置なしでアストラルクスへ行くで!」
「え、ええええええ~っ!?」
上昇機関は、経験の浅い者がアストラルクスへ行き来できるようサポートする、いわば自転車の補助輪だ。熟練者であれば装置は不要、エレメンタルタロットひとつでアストラルクスへ遷移できる。
だが当然ながら、あかりを含む新人四人は上昇機関の使用が義務づけられている。つまり、規則を破ることに他ならない。
「エティアさんに怒られちゃうよ!? それに私達、まだまだ実力不足だし!」
わたわたと慌てるあかりとは対照的に、ぎんかは煙草でも吸うように「ふぅ」と息を吐いた。エア煙草の仕草がどことなく、そこはかとなく不良っぽく見えなくもない。
「なあ、あかり。なんでこんな規則があるか考えたことあるか?」
「な、ないけど……」
ぎんかはニヤリと笑い、エア煙草をポイ捨てして告げた。
「それはな、ウチらを新人扱いしときたい先輩どもの陰謀なんや! あかりやって、いつまでもトイレ掃除ばっかしたないやろ!?」
「そ、それは……!」
――セフィロ・フィオーレ規則には次のように書いてある。
新人は喜んで雑用をしよう。雑用した分だけ強くなれるぞ!
by エレン&シャルロッテ
「隠してもウチにはお見通しやで。たまには丸投げしてばっかのエレンはんやシャルはんが汗水垂らして雑用してるトコ見たないか~?」
「……見たい!」
あかりは素直になった。
「決まりやな!」
言うが早いか、あかりとぎんかはタロットを掲げた。ロンドン支部で研修を受けた時、教官だったシルヴィアが見せた転移術を見よう見まねで試みる。
「イメージするんや、アストラルクスへ向かうって!」
「うん!」
頷いて、エレメンタルタロットを強く握った。生と死の狭間にたゆたうアストラルクス、紫がかった空の下に立つ自分の姿をイメージする。
「行くで!」
ぎんかの声を合図に、目を瞑った。途端、あかりの全身を温かな浮遊感が包んだ。泡に包まれて空を飛ぶような感覚。まるでシャボン玉の中に居るようだ。
――シャボン玉に包まれて、アストラルクスまで飛ぶ。
「もうちょっとやあかり、踏ん張れっ!」
「分かった!」
イメージが強固に像を結ぶと、浮遊感はより高まった。このまま上昇気流に乗って天高く舞い上がれば、アストラルクスへ到達できる。
しかし、ふと脳裏を過ぎった雑念が想像の邪魔をする。あかりの脳裏を一匹の黒蝶が掠めた途端、その羽ばたきが風を生み、瞬く間に想定しえない横風となって、あかりを包むシャボン玉を襲った。
「あ、ダメ! 待って待って待って――……!」
ひとたび雑念が交じると、想像は迷走を始めてしまう。不安なことを考えないようにしようと努めるほどに、不安が膨らんでいくように。あかりを包んだシャボンは暴風に揉まれ、きりもみになる。想像を制御できない。台風並の大嵐に嬲られ、天地も分からないほどにもみくちゃにされる。堪えきれず、あかりは目を見開いた。
* * *
「ここは……」
視界に飛び込んできたのは、紫がかったアストラルクスの空だった。自身の姿が変化していたおかげで転移が成功したことには気づけたが、周囲は見覚えのない住宅街で、側に居たぎんかの姿も見当たらない。しかも――
「気持ち悪い……」
四肢がひどく重くて、視界がぐらぐらと揺れていた。
アストラルクスはイメージが形になる。力を求めれば武器になるが、ネガティブなイメージもそのまま霊幽体に反映されてしまう。大嵐に揉まれる様子を想像してしまったがために、体が思うように動かなかった。
あかりの脳裏を、エティアの言葉が掠めた。
――アストラルクスは危険な場所。長居すると戻れなくなる。
このままでは危険だった。いつダエモニアが現れるともしれない上に、長居は許されない。戻らなければならないのに、体が言うことを聞かなかった。立ち上がっては転んでを何度となく繰り返す。このままここから戻れなくなってしまうのではないか。
危険なイメージに支配されそうになった時、あかりの眼前に手が差し伸べられた。
「手伝おっか?」
見上げたあかりが目撃したのは、生身の少女だった。あかりよりも数歳年上、十代後半くらいの女子高生。アストラルクスに似つかわしくない学生服の白いブラウスには、赤い模様が点々と飛び散っている。
「あなたは……」
尋ねると、少女は自嘲気味に笑って告げた。
「鈴掛みなと。……ま、誰もあたしのことなんて覚えてないみたいだけど」
少女――鈴掛みなとの要領を得ない返事に、あかりは質問を重ねる。
「アルテミスの仲間……?」
「や、訊きたいのはあたしの方なんだよね。この世界のこととか、あたしの左腕のこととか」
そう告げて差し出した左手首には、真一文字に切り傷が入っていた。傷口からはどす黒い液体が際限なく流れ落ち、アストラルクスの大地を汚している。
それを直視した途端、不意に肌がそばだち、背筋を冷たいものが走った。
「きみ、これが何か判る?」
彼女の正体はすぐに分かった。
タロット使いでもアルテミスらの仲間でもなさそうなのに、アストラルクスに存在できる者。ごく稀に存在するらしい、自力でアストラルクスへ遷移できる本物の霊能力者を除けば、正体はひとつしかない。
「それは――」
「ダエモニアです」
瞬間、青白い光があかりと少女・みなとの間に突き刺さった。とっさに身を翻して避けたみなとの足元に、立て続けに弾丸が穿たれる。
「……アンタらはなに?」
冷ややかなみなとの声に、重たい頭を動かして銃撃を受けた方向へ振り向いた。あかりのぼやけた視界が捉えたのは、揃いの制服に身を包んだ三人組――第一期生だった。
「遭難していた【太陽】を発見。ならびにダエモニアと会敵、威嚇射撃を行いました。戦闘行動の許可を求めます、メーガン隊長」
インカムに手を当てて通信するアルテミスの両脇で、少女達が例の拳銃を構えている。銃口はみなとへ向けられていた。
「……了解。武装レベル1、コンバットに設定」
アルテミスは銃把を握り、ゆっくりと体の前に構えた。
「あたしを殺してくれるの?」
「アルテミス隊、戦闘行動に移ります」
みなとの質問には答えず、照準。引き金が引かれ、撃鉄が弾けた。