青白い弾丸がぶちまけられた。あまりに過剰な斉射は、確実に標的を抹消しようという殺意の表れだった。ビル街に現れたダエモニアを殺戮したときと同じ、無慈悲なまでに合理的な弾雨が、鈴掛みなとへ向けて降り注ぐ。
「なん、で……」
あかりは、あまりに信じがたい光景に我が目を疑った。
少女は、弾丸を無力化してみせたのだ。第一期生の放った弾丸は、突如出現した黒い壁に呑み込まれ、相殺されてしまった。
「あなたは、いったい……」
アストラルクスへの転移に失敗したため動くに動けず、異常事態をただ眺める以外にあかりにできることはなかった。
みなとの足元には、黒い沼が広がっている。一瞥しただけでダエモニアと分かる、強烈な絶望と悲愴だ。その湖面が波立ち、壁となって、みなとの代わりに凶弾を引き受けている。穿たれ、穴が空いた壁は即座に液化して沼へ還元されて、また新たな壁となる。
「なによこれ……! あたし、どうなってんの……!?」
驚いたのはあかりだけではなかった。壁を作り出しているみなともまた、自分の身に起こった出来事を理解できずに慌てふためいている。
「なんでよ……。どうしてあたしは死ねないの……!」
そして、みなとはダエモニアの沼にゆっくりと沈んでいく。
――ダエモニアの形態変化かもしれない。
危険な兆候だと直感したあかりは、重たい腕をみなとへ差し伸ばす。
「捕まって……!」
「いや……もういや……!」
声は届かなかった。みなとの左手首から噴き出した黒い潮流に為す術なく、彼女はダエモニアの沼へ落ちていく。
「敵ダエモニア、形態変化の兆候あり。武装レベル2、アサルトに切り替えます。近接戦闘準備」
動転したみなとの一方で、第一期生達は冷静だった。携えていた拳銃を破棄し、流れるように両手を前方に構える。
「敵ダエモニアを抹殺します」
アルテミスらの殺気に青白い光の粒子が沸き立ち、彼女らの手のひらに集中。今度は刀身を青白く輝かせるナイフを顕界させる。獲物を見つけた肉食獣のようにしなやかに身を屈めて、みなとの首筋に狙いを定めた。
「殺してよ……誰か……!」
だが、言い置いて少女はダエモニアの沼底に没した。途端、第一期生から逃げるように黒い沼は蒸発し、鈴掛みなともろともアストラルクスに霧散した。
「……敵ダエモニア、反応消失。探知不能」
鈴掛みなとは、あかりの眼前で跡形もなく消え去った。
「【太陽】、意識レベル低下。彼女を回収し、帰還します」
視界は薄暗かった。耳鳴りもした。意識が遠のいている、そう認識できたあかりが最後に耳にしたのは、くぐもったアルテミスの声だった。
「現実に戻りますよ、太陽あかり」
それは、冴えた寒月のように冷たいアルテミスの印象とはまったく異なるものだった。喩えるなら、この世には居なくとも、いつも近くで見守っていてくれる人――母親のような、どこか聞き覚えのある懐かしくも温かい声。
「おかあ……さん……」
あかりの意識はそこで途絶えた。
* * *
みなとが最初にそれを試したのは、自宅の浴室だった。湯船を血に染めて終わりにできたと思ったとき、奇妙な夢を見た。
紫がかった空の下、無人の住宅街を歩いている。死の淵に立った人が目撃する臨死体験だ。であれば、どこかにある生と死の境界線を踏み越えれば、死ぬことができるはずだった。
境界線を探して、無人の住宅街を死期を悟った猫のように彷徨った。だが、みなとはあるはずのない底なし沼に足を取られ、気がついた時には――
「なんで……? あたしは、死んだはずじゃ……」
みなとは、近所のコンビニの駐車場に立っていた。臨死体験で目にした世界とは違う青い空の下には、人々の暮らしが息づいている。みなとが逃げ出したはずの日常の風景だ。
どういうわけか、みなとは生き返ってしまった。一度目の自殺は失敗に終わった。そして、それ以上に奇妙な現象がみなとの身に降りかかった。
「はー、暇だわ~」
退屈そうな声に反射的に振り向いたみなとは、クラスメイト達の姿を見留めた。彼女らはかつてみなとを追い詰めた張本人で、退屈なモラトリアムを潰すために人間をオモチャにして喜んでいる者達。
――遊んであげてんだから文句言うなよ、陰キャのくせに。
それが、彼女らがイジメを正当化する常套句だった。
難癖をつけられる前に身を隠そう。そう思って付近に目を遣ったが、そんな場所はどこにもなかった。面倒が起こることを覚悟した。
だが意に反して、クラスメイト達はみなとを無視して騒いでいる。それはまるで、みなとが赤の他人であるかのようだった。
初めは無視されているのだと思った。人間をオモチャにして遊ぶ彼女らがやりそうな、いかにも低俗な遊びだ。
だが、それが間違いであったことにすぐ気づいた。
「ま、待ってよみんな……」
クラスメイト達から遅れて、見慣れた少女がコンビニの自動ドアをくぐった。
少女の名は、山下まりん。鈴掛みなとの親友で幼馴染みだった。
「早く来いよ、まりんちゃん」
「待って……」
急かされたまりんは、みなとの目の前で派手に転んだ。
何もないところでよく転ぶ。それがまりんの癖だった。そのたびにみなとが手を差し出して助けてやる。そんな付き合いを幼い頃から続けていた。
「大丈夫?」
いつもやっている通りに、みなとは右手を差し出す。
「あはは、大丈夫です。私、転び慣れているので」
まりんは差し出した手を掴むことなく、そう言った。
親友のまりんすらも、低俗なクラスメイト達のように自分を無視している。とっさのことに声が出ないみなとに、まりんは続けた。
「……優しいんですね。あなたみたいな人が友達だったらな」
「え……」
まりんは「なんでもないです!」と苦笑して、クラスメイト達の輪に入っていった。
「じゃ、飲み物はまりんちゃんのおごりで」
「ゴチでーす!」
「え……でも、後でお金払うって……」
「ああ? 遊んであげてんだから文句言うなよ、陰キャのくせに」
狼狽えるまりんを尻目に、少女達はレジ袋の中から次々飲み物を奪っていく。それは、イジメの現場だ。しかも本来なら、みなとが受けるはずだったもの。
その時、みなとの脳裏を恐ろしい空想が過ぎった。
――あたしは、この世界から忘れ去られたのかもしれない。
恐ろしくもバカバカしい空想だと初めは思った。だが確かめずにはいられなくて、顔見知りの家を訪ねて回った。
空想は現実のものになった。尋ねた人々は全員、口を揃えてこう言う。
「知らないですね、鈴掛みなとなんて」
どうにか、誰かひとりでも自分のことを覚えていてほしくて駆けずり回っても、結果は変わらない。知人も、友人も、近くに住む親戚も、近所の優しいお祖母さんも、普段は会いたくない嫌いな人間も、まったく同じ返答を寄越してくる。
その上――
「あの……。鈴掛みなとってご存じないですか?」
「鈴掛みなと……? さあ、聞き覚えがないですね……」
自分の親すらも、鈴掛みなとのことを忘れていた。忘れているどころか、最初からそんな人間など存在しなかったかのように振る舞っていた。
* * *
「はあ……はあ……」
住宅街の路地裏。エアコンの室外機の上に座って呼吸を整える。右手に握った血まみれのナイフと、すっかり塞がった左手首の傷口を見て、少女――鈴掛みなとは再び失敗したことに気づいた。
「また、死ねなかった……」
左手首を拭って、買ったばかりの包帯を巻いた。別に、止血をしたくて――助かりたくて買った訳ではなかった。
二度目のそれは、確実に逝けるように深く突き刺した。そんなみなとの想いをあざ笑うかのように、彼女はまた夢の世界に魂を留め置かれてしまった。
一度目と違ったのは、夢の世界に先客が居たこと。太陽のように燃えさかる、深紅の長髪の少女。そして、その後に現れた、自分を殺そうとする三人組。
三人組の少女は、みなとを指して意味不明な言葉を告げた。
――ダエモニア。
包帯を巻いた左手首に視線を落とした。傷口を覆っておかないと、あの悪夢を思い出してしまいそうで怖かった。一度ならず二度辿り着いてしまった世界のことを忘れたくて、包帯の上から包帯をさらに結ぶ。
「どうなってんの、あたし……」
死にたいのに死ねない。どんなに深く、左手首の血管を引きちぎる勢いで突き刺そうとも、奇妙な夢から醒めると傷跡だけを残して再生してしまう。
そればかりか、みなとの存在は世界から消滅してしまった。家族もクラスメイトも親友の山下まりんさえも、誰ひとりみなとのことを覚えていなかった。
みなとは、自身の身に降りかかった悲劇をようやく理解した。
十七歳の少女・鈴掛みなとは、死からも、そして世界からも嫌われてしまった。