この世界に救いがないように、この職場にも救世主なんて都合のいい者は存在しない。あるのは過ぎたはずの納期と、放置された業務と、それらをすべて押しつけて業務中にアダルトビデオを愉しんでいる上司だけだ。
この上司を、仮に暴君としよう。
暴君は、私を含むいたいけな騎士達に過酷な
そんな悪辣な城の中で、私は騎士として働く。騎士として唯一忠誠を誓った
言わばこの城は、なんでもござれのブラック企業。
そして私は、そんな企業に人生を搾取されるブラック労働者。
はたしてこの人生には、意味があるのだろうか。
* * *
「ブラック企業……?」
「法的にブラック――要は、違法な労働をさせてる会社ってことやな」
セフィロ・フィオーレ余津浜支部。談話室。
太陽あかりの疑問に、白金ぎんかが答えた。
談話室のモニタには、ロンドン支部に出張中の月詠るな、星河せいらの姿が大写しになっている。
『黒い建物に入ってる会社じゃないんだ……』
『それはそれで不気味だけどね』
パジャマ姿のるなは、とんちんかんなことを呟くせいらの隣でクスリと笑った。
永瀧を騒がせたケルブレム事件後。ロンドンでの研修を終えたあかり達新人部隊の四名は二ヶ所に分かれ、タロット使いの任務を全うしている。こうして毎朝――るな達にとっては毎夜――お互いの近況報告がてら雑談をするのが、四名の日課になっていた。
『ぎんかの所はブラックじゃないの?』
「そんな訳あるかい! サンチョパンサは皆様に愛された超絶ホワイト企業や!」
モニタに顔をぶつける勢いでぎんかが叫んでも、せいらは涼しい顔でスクワットを続けていた。ぐぬぬと歯ぎしりするぎんかを刺激しないように、るながあかりに語りかける。
『あかりさん、どうして急にそんな話を?』
「最近、そんなことを言ってるダエモニアが多いんだ。だから、ちょっと気になって」
『あかりさんはダエモニアの声が聞こえるんですものね』
ダエモニア――妬みや嫉み、怒りと言った負の感情を糧に人間を食らう、姿なき怪物。そんなダエモニアを、エレメンタルタロットの加護を得て討伐するのがあかり達タロット使いだ。ただし、その中には特別な出自を持つ者もいる。
「ダエモニアの声が聞こえても、お父さんの居場所は分からないけどね」
あかりは、タロット使いの母とダエモニアの父の間に生まれた。人間とダエモニア双方の血を継ぐ存在は、エレメンタルタロットを管理するセフィロ・フィオーレ千五百年の歴史において前例がない稀有な存在。それこそが、自分が余津浜に呼ばれた理由なのだろうとあかりは思う。
『そうですか……』
不幸な出自の話をすると、せっかくのガールズトークが湿っぽい空気になってしまった。焦ったあかりはわたわたと手を動かして、「とにかく!」と意気込んで喋りだす。
「お母さんが昔過ごしてた余津浜なら、きっとお父さんの手掛かりもあるはずだよ! だから私、大丈夫だから!」
そんなあかりの姿を見て、筋トレを終えたせいらがつぶやく。
『ぎんか。あかりが無理しないように見張ってて』
『うん。お願いね、ぎんかさん』
「当然や! ウチら四人は美少女タロットカルテットやからな!」
「そ、その名前はどうなんだろう……」
気心が知れた少女達の賑やかな雑談にも、九時間の時差がのしかかる。そろそろ宴もたけなわだ。るなの瞼が重くなった頃合いで、解散することになった。
「じゃあおやすみ、るなちゃん。せいら」
『おやすみなさい、あかりさん。ぎんかさん』
モニタ越しに手を振って、二組は別々の生活に戻る。夜に眠れるのは、誰かが夜を守ってるおかげだから。
* * *
終電を逃した騎士達は、不夜城で仕事に打ち込む。もう三日、家に帰れていない。暴君と、彼が寵愛する社員は毎日定時でのうのうと帰っているのに、私達騎士はそれすらも許されない。
暴君曰く、『納期に遅れたお前達に、人権はない』。
その言葉で、何人の騎士が城を去ったことだろう。ある者は病に倒れ、ある者は失踪し、責任の所在が明らかでない業務ばかりが残されていく。
ブラック企業は逃げるが勝ち。皆、頭ではそれが分かっているはずだ。
いや、もしくはそんな正常な判断も下せないくらいに、思考力が低下しているのかもしれない。心を壊しているのかもしれない。
だが、私には希望があった。こんな城を守り続けようと思える希望が。
「おはようございます、先輩!」
始業時間ギリギリに、私の隣のデスクに女性社員が滑り込んできた。この世のいかなる闇より深い漆黒めいた職場には似ても似つかない、光のような笑顔を絶やさない後輩社員。
彼女を仮に、姫君としよう。
私は姫君に、恋をしている。
「先輩は今日も泊まりですか?」
私は適当に返事をして、ボサボサの髪の毛を手櫛で整えた。腐臭を放っている他の連中とは違って、私だけは身なりに気を遣っている。姫君に嫌われたくないからだ。その甲斐あってか、姫君とのふれあいは私がほぼ独占している。
「いつも手伝ってもらってすみません。お詫びじゃないですけど、お弁当を作ってきたんです」
姫君は、手作りのお弁当を渡してくれる。他の騎士には目もくれず、私にだけに。
それをありがたく頂戴し、姫君が担当するはずだった作業ノルマを手渡す。これで姫君は、理解も智慧もない無能な暴君のパワハラを受けることはない。
姫君に降りかかる火の粉は私が払う。騎士である私の当然の責務だ。
彼女――姫君と恋仲になりたい。
下心を理由にブラック労働を続ける私の動機は、不純だろうか。
* * *
「動機が不純ですね、却下します」
「どうきふじゅんなの~」
「したごころなの~」
「なの~」
修道女姿の少女、ミレイユ・皇が提出した永瀧からロンドンへの異動願は、事務方のマルゴット・ブライトクロスと天道三姉妹の輪唱によって阻まれた。
ミレイユは、異動願が手の中でクシャクシャになっていることなど気にも留めずに、前のめりでマルゴットに詰め寄る。
「どこが不純なんですの!? 申請理由によく目を通してくださいまし!」
だが、当のマルゴットは聞く耳を持たない。執務室のデスクについたまま、眉間を指で摘まんでため息をついた。
「目を通すまでもありません。どんなに理由を取り繕っても、本当の目的は
「ミレイユおねーたんはシルヴィアおねーたんと一緒に居たいだけ~」
「愛の成せるわざだね~」
「だね~」
「ちっ、ちちち違いますわ!
「「「うそつき~」」」
「お黙りなさ~いッ!」
息の合った三重奏を見せた天道三姉妹を、顔を真っ赤に染めたミレイユが追いかける。永瀧支部の執務室に積まれた未処理の書類や資料類を、なんの遠慮もなく散らかしながらドタバタ走り回る四人の姿を見て、マルゴットは着衣の法衣がしわくちゃになることも気にせず、デスクに額を打ちつけた。
「こんな仕事……もう辞めたい……」
せめて事務方じゃなく、ダエモニアと殴り合って憂さ晴らしがしたい。
そんなマルゴットの儚いうめき声は、永瀧の風に乗ってかき消えた。
大規模ダエモニア発生の報はまだない、仮初めの平穏。
だが、タロット使い達の預かり知らぬところで悪魔は常に囁いている。
人と人とが出会う限り、人と人とが触れ合う限り。
たとえばそれは、なんの変哲もないオフィスのような場所でさえ――