『先輩、相談があるんです。先輩にしか頼めないことで……』
社内メッセで姫君に呼び出された私は、姫君の身に降りかかった事件を知った。
「ロッカーに入れておいた下着を、誰かに盗まれてしまって……」
曰く、姫君の周囲では盗難騒ぎがよく起こるらしい。マグカップやブランケットなどの私物がなくなるのは日常茶飯事。その程度ならまだ諦めもつくが、鍵の掛かるロッカーまで荒らされるのはさすがに怖い、とのこと。
愛しの姫君が怯えている。姫君に忠誠を誓う騎士である私は、二つ返事で犯人捜しを引き受けた。
程なくして、犯人は見つかった。退社した同僚のデスクの引き出しに、姫君から盗んだと思しき下着が入っている。私は証拠写真を撮影し、翌朝姫君にすべての真相を話した。
姫君の事件は、同僚の懲戒解雇という幕引きで終わった。往生際悪く「俺じゃない」と連呼する彼の姿があまりにも無様で、こんな者と机を並べて仕事をしていたことが恥ずかしかった。
「ありがとうございます、先輩!」
姫君のその言葉と笑顔が、私にとってはなによりの報酬だった。
だが、報酬はそれだけではなかった。
『先輩。今夜0時、会えますか』
姫君からの社内メッセには、待ち合わせ場所と称してホテル街近くのファミリーレストランが指定されていた。恋愛下手な私でも、その逢瀬の意味合いは推し量ることなく理解できた。
これは、姫君から私へのアプローチ。
脳裏で夢想するだけだった姫君との恋愛が、形になろうとしていた。
* * *
「男っていうのはね、どこまでいってもおサルさんなのよ」
丸テーブルで紅茶を囲む女性達の中、煽情的なワンピース姿のクリスティン・アイボリーが呆れとも憐れみともつかぬ口調で言い放った。
「貴女が渡り歩いてきた男性は、そうなんでしょうね」
それに応じる魔女メルティナ・メルヴィスは、皮肉を込めて口角をわずかに上げる。そして勝者の余裕を感じさせる優雅な所作で、ティーカップに口づけした。
欧州の東端、サンクトペテルブルク。モダン様式で彩られたサロンの中で、三人のタロット使い達がしのぎを削っている。ただし、戦いはエレメンタルタロットによるものではない。
これは、己の恋愛観の戦いだ。
「あら、さすがは年の功ね、メルティナ?」
「クリスのような子供には難しかったかしら?」
互いに笑顔の仮面を張り付けて、にっこりと微笑みあう。その表情の裏でどのような想いが渦巻いているかは、女子の深淵だ。知らぬ方がよいこともある。
そんな二人のぶつかり合いなど一切無視して、斜めに腰掛けたヴァネッサ・ディ・ファルコーネが、銀製のキセルから吸った煙を吐き出した。
「どうでもいい理想論だねえ……」
そのぼやきに、互いに牽制しあっていたクリスティンとメルティナは、瞬時に矛先をヴァネッサに向けた。共通の敵が居れば、人は簡単に団結するものだ。
「では、ヴァネッサ隊長? 貴女の想う理想論とやらをお聞かせいただけます?」
「ええ、ぜひとも拝聴したいわ。ねえ、クリス?」
隙あらば、完膚なきまでに言い負かしてやろう。その考えで一致した二人は、攻撃的な笑顔でもってヴァネッサを責め立てる。だが、ヴァネッサは動じない。のんびりと紫煙を燻らせながら、己の間合いに二人が入ったのを見計らってつぶやいた。
「結局はカネだろ」
三人の間に沈黙が流れた。クリスティンもメルティナも、もちろん反撃を試みたが、脳内でどんなに言論をこねくり回そうとも、これに勝る理想は持ち得ない。
二人の小娘の笑顔がひび割れたのを見て、ヴァネッサは呵呵とばかりに笑った。
「ま、全部が全部じゃないだろうがね。カネは、人間を測る尺度のひとつなのさ」
かくして女の戦いは、あっという間に終結したのだった。
* * *
私は待ち合わせ場所のファミレスで姫君と合流する。二言三言話したあとで、私は光の権化のような彼女の顔に、一筋の影が差していることに気づいた。
「やっぱり、気づかれちゃいましたか……」
私が指摘すると、彼女は憔悴した様子で身に起きた事件を語る。
曰く、姫君は亡くなった父親が残した借金に苦労しているらしい。それが、私物を盗まれるような最低な職場を辞められない理由だと言う。
「もう少し、私に能力があればって思うんですけど……難しくて……」
父親の残した借金はかなりの額だった。あまりよろしくない筋からの借り入れもあるらしく、姫君ひとりの稼ぎでは返済はかなり難しいだろう。
「すみません、湿っぽい話になっちゃいましたね」
ひとりではどうしようもない悩みをいつもの明るさで覆い隠して、姫君は笑った。あまりに痛々しい笑顔だった。
だから私は、彼女を守る騎士として告げた。
――「少しでも力になれるなら」と。
そして私は、ファッションホテルの一室に居る。
待ち合わせ場所からの流れで晴れて交際関係となった私と姫君は、終電をなくして一夜をともに明かすことになった。この後に起こるであろうことは、私が何度となく夢想してきたこと。それが今、現実に。手の届く場所に迫っている。
逸る気持ちを抑えようと、私はキングサイズのベッドに横になった。瞑目して、シャワーの水音が想起させる姫君の姿を打ち消し、早鐘を打つ心臓を黙らせる。すると自然に睡魔に襲われ、私の意識は深い眠りの中に落ちていった――。
* * *
効き目が出る頃までシャワーに篭もった。体を拭いて寝室に戻ってみれば、先輩は案の定寝息を立てていた。遅効性の睡眠薬は、どんな男だろうと平等に、眠りの世界へ誘ってくれる。
「大好きですよ、先輩」
男の頭を撫でながら、脳内で試算する。男の容姿、年齢、性格、趣味、職場環境、そして独身であること。さまざまな要素をこねくり回して、この男性がATMとしてどれだけの魅力があるか考える。
「150万ってとこか」
――勤め先の先輩社員、引き出し限度額は150万円。
そう値踏みをして、ベッドサイドで煙草に火をつけた。スマートフォンには、他のATMから入金のお知らせが届いている。
『約束の50万振り込んでおいたよ。お父さんの手術、上手くいけばいいね』
このATMは、父親が手術を受けるという設定を信じこんでいる。他のATM達も同じ。塀の中に居る父親、ギャンブル漬けの父親、借金を残して他界した父親。それに振り回される憐れで健気な娘という設定を愛している。
そんな娘など、存在しないというのに。
『ありがとう。手術が成功したら、ね?』
男を繋ぎ止めるメッセージに、意味深なハートマークを添えた。後のメッセージは無視して、振り込まれた金額を別の口座に移した。
まだ足りない。まったくと言っていいほど足りていない。
「もう少し、頑張らないとな」
煙草の煙を吐き出して、幸せそうな顔で眠りこけている先輩の姿を見た。すべてが幻であることなど知りもせず、都合のいい夢を見ているのだろう。
そのままずっと、干上がるまで。幸せな夢を見させてあげる。