母親の日記帳を紐解くのは、あの日――『恋人』の対消滅を耳にして以来だった。
対消滅。
それはエティアの母親でエレメンタルタロットの始祖、アリエッティ・ビスコンティが、はるか1500年前に予期した未曾有の現象。
のちに『恋人』の対消滅は誤報だと分かったが、直後に『節制』が本物の対消滅を起こし、日記の予言は現実のものとなった。
『エティア、定時連絡だ。見えているか』
古ぼけた日記帳を閉じて、エティア・ビスコンティは執務室に浮かんた半透明なアリエルの姿に目を遣った。立体映像だ。
「良好よ。きめ細やかな肌までよく見えているわ。アリエル」
生真面目な副長、アリエル・V・ウェストコットの反応が見たくてからかってみたものの、彼女は普段の仏頂面を崩すことなく定時連絡を始めた。
セフィロ・フィオーレ。世界的な占星術師の学校は表の顔。その実態はダエモニアを秘密裏に駆除するタロット使い達の秘密組織。その長であるエティアは、あの事件以来永瀧を離れ、余津浜支部の執務室に落ち着いている。
「まず、欧州の発生件数は例年通り対処できている」
「次。内偵中の不審者リストに目立った動きはなし」
「次。マルゴットが経理を承認しろとうるさい。処理を頼む」
無味乾燥とした連絡に退屈したエティアは、アリエルが息継ぎするほんの一瞬をついて質問を割り込ませる。
「次――」
「そちらはどう?」
話を遮ったのに、アリエルは顔色ひとつ変えずに答えを返してくる。
『彼女らは良好だ。数日のうちには出撃できる』
予想に反した返答に、エティアは思わず唇をすぼめた。
「違うの。久しぶりのマルセイユでしょう? いつぶり?」
指折り数えるエティアの指が足りなくなったタイミングで、アリエルが声を荒げた。
『歳の話はするな。それを言うならお前もだろう!』
「ふふ、そうね」
期待通りの反応が見られて満足したエティアは、報告にあった彼女らの話に戻る。
「第一期生は卒業できそうね。名うての鬼教官に任せるのは心配だったけれど」
『この程度で音を上げるようでは、やっていけないだろう』
アリエルの表情は硬かった。その意味を瞬時に理解したエティアは、執務室の外、余津浜の街に視線を遣った。
「できれば何事もなく、平穏無事であってほしいものね……」
* * *
「お前がここ以外でやっていけるはずないだろ」
翌週。私の提出した辞表を破り捨てて、暴君は告げた。
暴君に焦りの色は伺えない。その余裕ぶりに、私はとうとう辛抱ができなくなった。
怒りのままに暴君をにらみつける。他人に対してここまで憤ったことはなかった。転職を認めなかったことだけが原因ではない。理由の大半は姫君の件だ。
なぜは姫君と歩いていた。
なぜは姫君と歓楽街へ消えた。
姫君は、私だけを愛すると誓ったのだ。
きっとお前は、借金にあえぐ彼女の弱味につけ込んだのだ。
彼女もまた暴君に虐げられているのだ。そうに違いない。
「それよりもお前は、お前みたいなクズを雇ってやってることを俺に感謝しろよ」
なおもふざけた口ぶりの暴君に手が出そうになった時、私用の電話が鳴った。内定先の担当者だ。電話口で告げられたのは「内定取消」だった。
「なぜ」という疑問に、採用担当者は告げる。
『ご自分のことならご存じと思いますが。理由は、犯罪行為です』
瞬間、私の頭は真っ白になった。
せせら笑う暴君の言葉が、空っぽの頭を揺らした。
「給料泥棒ならまだしも、本物の泥棒だったとはなあ」
かつて、姫君が私に解決を訴えてきた下着泥棒事件。卑劣な事件の犯人は私の同僚ということになっている。
解決したはずの事件の真相が、明るみになる。
立ち尽くした私に、暴君は告げた。
「だろ? 夜のオフィスで好き放題してた下着泥棒さんよ」
* * *
定時連絡を終えたアリエルは、マルセイユ本部執務室の椅子に体を沈めた。
「入りますよ、アリエル」
ノックと共に姿を現したのは、体型に合ったテーラードを着こなすメーガン・ブラックバーンズと、ジプシー風の衣装を着崩したプリシラ・トワイライトだった。
「何だ」
表情を崩さないアリエルに、メーガンはいつものにまにま笑顔を張り付けて告げる。
「第一期生が無事に修了したと連絡に。彼女らは言わば、次代のタロット使いだ。連絡は密にしておくべきと思いましてね」
「しっかり面倒見てやってよ。あたしの教え子だからね」
薄気味悪く微笑むメーガンの隣で、朗らかに笑うプリシラ。同じ笑顔でも、与える印象はまるで違っていた。
「分かった。当面は出撃待機。折を見て配備する」
「では、私は余津浜へ戻ります。代わりの教官は手配済みですのでね」
仰々しく一礼して立ち去ったメーガンを見送り、アリエルは残務整理に戻る。だが、脳裏にあるのは仕事を終えた安堵とはほど遠い不安と、事件に巻き込んでしまうことへの自責の念。
――できれば何事もなく、平穏無事であってほしい。
エティアの言葉を反芻して、アリエルは手帳のタスクを一つ消した。
* * *
「ほら、何か言えよ。泥棒さんよ」
暴君の追及に、騎士は黙り込んだ。隠していた真実が明るみになれば、無理もない。
「図星か。どうしようもない人間のクズだな」
瞬間、騎士は感情の赴くまま、暴君に掴みかかっていた。何度振り解かれても怒りは収まらない。これまでに虐げられてきた恨みが堰を切ったように吹き出し、荒れ狂い、空っぽになった騎士の思考を怒りで埋め尽くす。
――殺すしかない。
「やめてください、先輩ッ!」
凶行に及ぼうとした寸前、暴君との間に姫君が割って入った。姫君を見留めて、わずかに残っていた理性が怒りの矛を押しとどめる。
だが、暴君は顔面を真っ赤に染め上げて叫んだ。
「俺の女に手をつけやがったクズ野郎がァッ!」
横目に見た姫君の顔から、血の気が引いていた。
「こいつは親父の手術費用を稼ぐために、テメエのコソ泥の件を我慢してきたんだぞ! 分かってんのか!?」
暴君の発言は、姫君の言とはかけ離れていた。
姫君は他界した父親の借金を抱えていたのではなかったか。
それに――
――俺の女とはどういうことだ。
説明を求めると、姫君は糸が切れたようにフロアに崩れ、震え始めた。
姫君は、嗤っていた。
微かに聞こえた喉を鳴らす不気味な音は、すぐさま割れんばかりの哄笑となった。
「くく、くくく……。あっははははははは……!」
天を仰ぎ、豪快に嗤う。見開かれた姫君の瞳は、狂気に曇っていた。
清廉潔白な可愛らしい後輩。従業員全てが抱いていた彼女へのイメージは、一瞬にして瓦解した。
ここに居るのは姫君ではない。
魔女だ。
「やっぱ男ってバカだよね。ちょっと色気出せばすぐその気になってさあ」
目の前の現実を否定したくて、騎士は過去の蜜月を回想する。
愛らしい目元、恥じらった頬。初めて垣間見た女体の神秘。姫君は、男を手玉にとるような魔女ではない、清廉潔白な乙女のはずだ。
そう。そのはずなのに。
騎士はもう、すべてを信じることができない。
――騙していたのか?
声を震わせて問いかけるも、返ってきたのは残酷な言葉だった。
「ばいばい。用済みのキモいドーテー君?」
恋は終わった。恋ですらなかった。
ただ掌の上で転がされ、金も、想いすらも巻き上げられただけだと騎士は気づいた。気づいてしまった。
「お前は俺のモノだ! 会社も、カネも! 全ては俺のモノだ!」
姫君の腕を強引に掴んで、暴君が吼える。
その瞬間、オフィスの窓が砕け散った。
「カネのないヤツに用はないんだよ!」
今度は、オフィスの備品がグシャグシャに潰れた。
傲慢な暴君と、強欲な姫君。両者の罵声は怪物の咆哮へと変わり、オフィスに暴風を呼び寄せた。砕けたガラスや備品が物理法則など無視して舞い踊り、すべてを引き裂いていく。
これは、人間には説明できない未曾有の事態。
――なんだ、これは。
事態を認識できた者は、ひとりしか居なかった。
それは暴君、姫君と同じく、身の丈をとうに越えた負の感情に突き動かされ、一匹の怪物に変わった者。
だが、唯一の生存者――私の意識は、そこでぶつりと途絶えた。