幻影に舞う白銀

Web novel GENEI NO MESSIAH

第二章 幼き星は白銀に煌めく/02

「また、叩かれてる(・・・・・)……」
稽古場近くのバーで、新人女優のエリカは肩を落とした。SNSのメッセージ欄に届くのは、匿名の誰かからの罵詈雑言ばかり。批判や悪口が、あまりに的確にエリカの心を抉ってくる。
「なんて書かれてたの?」
尋ねてきた女性――シンシアに見えるよう、エリカはスマホを突きつけた。
『表情の芝居もできない独りよがりの下手クソが女優を名乗るな。どうせ関係者と寝てるんだろアバズレ』
「読み上げないでください……キツいです……」
「ごめんごめん」
悪びれることなく、シンシアはエリカの肩を叩いてきた。そして、慰めるよう言葉を続ける。
「気にしなくていいって。匿名でしかモノ言えないバカの言葉なんて無視よ、無視」
「先輩はないんですか、こういうの」
エリカの質問に、シンシアはどこ吹く風とばかりに呵々と笑ってみせる。
「こういう仕事だもの、批判は有名税みたいなものよ。言いたいヤツには言わせておけばいいんだって」
「そういうものですかね……」
「そういうものよ」
言い置いて、シンシアはグラスを干して化粧室へ立った。一人残されたエリカは、ファンレターを押しやって届く悪意あるメッセージに目を遣り、濃いため息をついた。重く、悲しく、沈痛な空気を吐き出すたびに、胸の中に確かにあった自信が崩れていく気がする。
それとも、とエリカは思う。自信や希望などとうの昔にすり減って、消えてなくなっているのかもしれない。

この不安や言いようのない悲しみは、どこから湧いてくるのだろうか。もしかしたらそれは、必死に取り組んでいる『オセロ』のせいなのだろうか。
オセロ。この地、英国に生まれた戯曲家ウィリアム・シェイクスピアの傑作だ。主人公オセロとその活躍を妬む男イアーゴの物語は、後世に四大悲劇の一つとして数え上げられるほどの壮絶な最期を迎えることで知られている。
「物語に引きずられているのかな……」
精神の不安定さをシェイクスピアのせいにして、エリカはグラスを干した。それからの記憶は曖昧だった。

「ああ、オセロ! せめて、せめて祈りを捧げるだけでも――」
「もう遅い!」
オセロ役の俳優にエリカは首を絞められた。エリカは苦悶の表情を作って、オセロ役の長台詞が終わるのを待つ。
最終オーディションを控えた稽古場は、役者達の熱気に包まれていた。がらんどうのフロアの至るところでハムレットが叫び、マクベスが狂い、リア王が悲しみを吐露している。すべては、『シェイクスピア記念公演』の出演を勝ち取るためだ。
シェイクスピア記念公演。ロンドン市内の四劇場で、オセロを始めとする四大悲劇を同時に上演するという伝統の祭典だ。舞台に立つことができれば役者人生を約束されるとあって、出演者達の熱量はとにかく高い。
少なくとも、エリカ以外は。
「……エリカ!」
オセロ役の俳優に本名を呼ばれ、エリカは現実に引き戻された。SNSでの批判が頭を駆け巡り、芝居に集中できなくなっているらしい。
「疲れてるのよ、交代しましょう」
「はい……すみません……」
同じ役、オセロの妻デスモデーナの座を争うシンシアの気遣いに、エリカは稽古場の壁に体を預けた。
批判を浴びて以来、上手く芝居ができない。言葉のナイフが創った深い刺し傷はそう簡単には塞がらないのだ。『匿名でしかモノ言えないバカ』の言葉だとしても、悪意を向けられて平気でいられる人なんてこの世界には居ない。
「ああオセロ。せめて祈りを捧げるだけでも」
エリカの眼前で、シンシアは先ほどのシーンを演じた。第五幕第二場、妻の姦淫を疑ったオセロが彼女の首を締めるシーン。
だが、シンシアの細い首筋にオセロ役の手が這った時、エリカは強烈な違和感を覚えた。

――オセロ役の俳優が入れ替わっている?

疲れているのだと思ったエリカは眉根を摘まむ。だが、何度見直してもオセロ役の俳優は別人に入れ替わっている。そうとしか思えないのに、稽古場のどこを探しても入れ替わる前の俳優の姿はない。
「顔色悪いわよ。外の風でも吸ってきたら?」
何事もなかったかのように笑うシンシアへ――もちろんオセロ役の俳優へも、違和感を口にすることができず、エリカは稽古場を後にした。精神状態に加えて体調もよくないから、奇妙な幻覚を見たのだ。そう決めつけて稽古場の外へ出た時、エリカは背後から声を掛けられた。

「気づいてない? あんたの周りから人が消えて、別人に入れ替わってんだけど」
「え……」
振り向くと、少女が居た。視線が合ったとみるや、少女は左腕を体の後ろに隠して意味深に呟く。
「ダエモニアになった人間は、世界から忘れ去られて嫌われる。その人の居場所に空きができた時は、別の誰かが居場所に収まる。さっきの俳優みたいに」
違和感の正体を言い当てた少女にエリカは尋ねる。
「あなたは……?」
「気をつけた方がいいよ。あんたもダエモニアになりかけてる」
「ダエモニア……?」
聞き馴染みのない言葉に首を捻ったエリカに何も言わず、少女は路地の中へ消えた。エリカが路地を覗き込んだ時には既に少女の姿はない。忽然と姿を消してしまった。
「これも、幻覚……?」
すべては、疲れが見せる幻覚なのだろうか。それとも、現実に起きていることなのだろうか。何も分からない。エリカは、力なく路地の壁にもたれた。ふと見下ろした足元の石畳には、赤黒いシミが点々と続いていた。

*  *  *

アストラルクス。高層ビルの屋上で、シルヴィアの空想存在・銀騎士デュランダルがダエモニアへ向けて吶喊(とっかん)した。
「見えているか、星河!」
シルヴィアに問われたせいらは、ダエモニアを注意深く観察した。新型ダエモニアの弱点、集合無意識の糸を探そうと弓兵の目を凝らす。しかし――
「見つかりません!」
「ならば援護を。糸は私が断ちきる!」
シルヴィアは叫ぶと、剣を輝かせて駆け出した。指示通り、シルヴィアに降りかかる攻撃を射潰すも、せいらには最後の瞬間――シルヴィアが虚空を両断するその時――まで、糸を見つけることはできなかった。
見えなかったのだ。
シルヴィアには見えていた糸が、せいらには見えなかった。ダエモニアのハーフであるあかり、その思考を盗み見たぎんかという特例(・・)を除けば、糸が見えるか否かは経験と実力の積み重ねがすべてだ。つまり、糸を見つけられたのはシルヴィアがオトナだから。とはいえ、そんな理屈をすんなり受け入れられるほどせいらは子どもではない。
「保護が先決だ、一旦戻るぞ」
シルヴィアに手を引かれ、せいらはアストラルクスから現実へ戻った。
澄んだ空の下、ビルの屋上に若い女性が倒れている。ダエモニアに罹患していた被害者だろう。
「大丈夫か!?」
シルヴィアが叫んだ途端、女性は奇声を上げて頭をかきむしり始めた。
「いかん、パニックを起こしてる! 星河、万梨亜を――」
瞬間、銃声が響いた。万梨亜への連絡を中断して、せいらは女性の姿を見留めた。笑っている。そして銃口をこめかみに押し当てている。

自殺する気だ。

「バカなことはやめろ!」
「私は誰も楽しませられないダメな役者。生きる資格も価値もないダメな人間。生きているだけで周りの迷惑。みんな私を批判(・・)している。居なくなった方がいいって言ってる。だからもう、これ以上迷惑を掛けたくない」
言い切ると、女性は引き金を引いた。万梨亜への連絡も、シルヴィアの制止も間に合わなかった。
「そんな……糸を切ったのに……」
「……ダエモニアに侵されていようがいまいが、自ら命を絶つ者は居る。彼女――シャーリー・アマルフィは後者だったんだろう」
驚嘆するせいらの目の前で、女性の持ち物を漁りながらシルヴィアは淡々と言った。目の前で誰かが死んだばかりだというのに冷静でいられるのは、オトナだからなのだろうか。

だとしたら、オトナというものは、せいらが思っている以上に悲しくて、寂しくて、恐ろしいものなのかもしれない。

そうしたせいらの逡巡を見抜いたのか、シルヴィアは静かに語った。
「お前がタロット使いを志した理由はエティアから聞いている。目の前で人間が死んだんだ、辛いことを思い出させてしまったな」
「……いえ、平気です」
「そうか、お前は強いな」
シルヴィアは立ち上がって、身につけていた白手袋を懐にしまった。現実世界での死者は、タロット使いの領分ではない。各地の警察機構に委ねるのが暗黙のルールだ。
「死因は批判を苦にしての自殺、といったところか」
「そんなことで……」
歯噛みするせいらに、シルヴィアは優しく諭すように語りかけた。
「人間がみんな、お前のように強いとは限らない。お前からすれば下らない陰口や単純な失敗でも、痛みの感じ方は人それぞれだ」
痛みの感じ方は人それぞれ。
その言葉は理解できても、意味はせいらには分からなかった。少なくともせいらは、悪口を言われた程度で自らの命を絶とうとは思わない。そんなつまらないことで死を選ぶなんて絶対におかしい。
「……私にはよく分かりません。きっと、まだ子どもだから」
「まったく。私によく似ているよ、お前は」
シルヴィアは苦笑して、わずかに震えているせいらの肩を抱いた。
「いつか分かるようになるさ。自分のことも、他人のこともな」
シルヴィアに誘われ、せいらは再びアストラルクスへ飛んだ。せいらの脳裏に流れ込んできた意志は、ほんの少しだけ温かかった。




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