幻影に舞う白銀

Web novel GENEI NO MESSIAH

第二章 幼き星は白銀に煌めく/05

「続いて、デスモデーナ役を発表します」
 稽古場には『オセロ』の最終オーディションに残った役者が顔を揃えていた。スタッフが、オセロ役、イアーゴ役と結果を読み上げる。
「デスモデーナ役は……」
 エリカは固唾を呑み込んだ。名前を呼ばれれば、成功は約束される。それは他の女優達も同じこと。その日を夢見て、誹謗中傷や心の弱さと戦ってきた。
 だから名前を呼んでほしい。他の誰でもなく、エリカと。
「ミランダ。君がデスモデーナだ」
 スタッフの言葉に、背後で歓喜の声が上がった。同時に、エリカの将来は閉ざされた。
 エリカは湧き上がるネガティブな気持ちを必死に呑み込んで、勝者のために笑顔を作る。正々堂々競ったライバルに恨みをぶつけるのは筋違い、単純に実力が足りていなかっただけだと言い聞かせて。

      *  *  *

 深夜二時。あたしが一番好きな時間帯。なのに、やっていることは教師の真似事。面倒臭い。
 何の因果か受け持つことになった生徒達の答案を採点していると、ノックと扉越しに躊躇いがちな声が聞こえた。
「わたくしです。ミレイユです」
 樫の扉を開けるなり、ミレイユが私室に飛び込んできた。潜入の緊張感から解放されたのか安堵してため息をつくと、戸惑いがちに切り出してきた。
「契約、覚えていますわよね」
 ミレイユの血を吸う対価に、知り得た情報をリークする。マルセイユ行きを指示したメーガンは、あたしに口止めはしなかった。寡黙なあたしが漏らすはずはないとでも思っているのだろう。
 おかげでメーガンの鼻を明かせる、いい機会だ。
「血は足りてる?」
「おかげで全身がレバニラ臭いですわ……」
 強烈なニラとニンニク、汗の匂いに鼻が曲がった。言いつけ通りにレバニラを食べてきたのだろうけど、あまりにひどい。
「臭い血は嫌い。先にシャワーを浴びて」
「さ、先にシャワーを浴びろですって!? シルヴィア様にも言われたことないのに!」
 意味不明なことを叫ぶミレイユをバスルームに押し込めて、あたしは歯を念入りに磨き、消毒液でうがいをする。
 伝説上の吸血鬼達は、闇に紛れて淑女を襲うと言い伝えられている。だけどそれは、聞き分けのない子どもを脅すための怪談。実際の吸血鬼が犯行に及ぶのは、二人きりで邪魔の入らない寝室だ。そうじゃないと、せっかくのディナーに集中できない。
「これで充分ですの……」
 バスローブ姿のミレイユの匂いを嗅いだ。香草入り石鹸すら突き抜けるニラに辟易したけれど、これ以上はどうしようもない。たまには中華風味も悪くないかも、とあたしは自身に言い聞かせた。
「首筋を消毒する。座って」
「まさか噛みつくつもりじゃありませんわよね? 乙女の柔肌に」
 今さら何を言っているのだろう。吸血鬼が牙を突き立てるのは首筋と相場が決まっているのに。
「そういう契約だから」
「歯形が残ったらどうしてくれるんですの!?」
「じゃあ、やめる?」
 ミレイユは露骨に狼狽えてから、首を横に振った。ミレイユのバスローブをはだけさせて白い首筋を露わにさせてから、アルコールをガーゼに染みこませる。
「右がいい、左がいい?」
「それより、マルセイユ校の情報は?」
 ミレイユの右首筋をガーゼで拭きながら、あたしは昼間の授業内容を話すことにした。
「マルセイユ校で学んでいる生徒は二十一名。大半は有象無象だけど、何人か本物の占い師が混ざっている」
「なぜそうだと思いましたの?」
「テストをした」
 机の上に積まれた二十一枚の答案をミレイユに渡した。『アストラルクスとは何か』という論述試験の答案用紙には記名欄がない。記名欄のある用紙右上端を犬の耳のように三角形に折ってのり付けし、名前を隠すというフランス式の答案だ。
 答案をいくつか斜め読みすると、ミレイユは肩を落とした。
「ここの生徒達……アストラルクスへの理解が浅すぎますわね……」
「そう。この程度の認識では、アストラルクスにアクセスなんてできない」
「ですが、あなたさっき本物の占い師と――」
「続きがある」
 アストラルクスへアクセスできるのは、タロット使いか本物の占い師だけ。それがこの世界のルール。だけど。
「アストラルクスを見るだけなら、可能な者も居るらしい」
 試験中、あたしは問題をひとつ追加した。「アストラルクスに置いてきたメモ書きの内容を言い当てろ」というもの。欄外に作らせた臨時の回答欄には、様々な言葉が並んでいる。
「答案用紙に『エレンのバカ』と書いてある者は、本物の占い師。七人居る」
 ミレイユは七人分の『エレンのバカ』を確認して、答案用紙右上のドッグイヤーをめくろうとした。名前を確認するつもりだろう。
「それ以上は血を吸った後で」
 あたしはミレイユの指を制して、耳元で囁いた。契約を守って貰わないと、情報をリークする意味がない。
「仕方がありません……」
 ミレイユは観念したように呟いて、右首筋を突き出してきた。
「い、痛くしないでくださいましね……」
「我慢して。それも契約のうち」
 口では平静を装えても、心臓は高鳴っていた。久しぶりの吸血だから高揚感と興奮があたしの理性を上書きしている。視界はミレイユの右首筋、そこを走る青い血管に釘付けだ。もう自制の必要はない。仄暗いトラウマで編まれた理性の奥底に眠る、吸血鬼の本能の赴くままに。
 あたしは、ミレイユの首筋に牙を突き立てた。
「ん……」
 苦悶も声も届かない。上下四本の牙で柔肌を穿って、にじみ出た血液を味わう。生き血があたしの本能を揺り動かして、牙はより深くなる。鼻腔をくすぐる石鹸のアロマとレバニラの香り、舌に触れるのはミレイユの味。
「ミレイユの血、ひどい味がする……」
「知りませんわよそんなの……、んんっ……!」
 ひどい味でも血には変わりない。このまま吸い尽くしてしまいたい吸血鬼の本能を、なけなしの理性が抑える。「あと一滴だけ」という言葉を魔法のように繰り返して、あたしはミレイユの血をすすった。
「寒気がしてきましたわ……」
 名残惜しいが頃合いだ。牙を抜いたあたしは、傷口ににじんだ最後の一滴を舐め取って、消毒をして絆創膏を貼ってやった。
「傷跡は数日で元に戻るけど、血液は一ヶ月くらいかかる。激しい運動は控えて。献血も禁止」
「これで……契約通りですわね……」
 青白い顔のミレイユをベッドに寝かせてから、あたしは例の七人の記名欄をめくった。名前と顔はまるで一致しないけど、ひとりだけ覚えている生徒が居た。
月見里(ヤマナシ)
 マルセイユ校生徒、月見里。一番に試験を終えて答案用紙を寄越した生徒だったからよく覚えている。だけど、書かれた解答以上のことは、あたしには分からない。
「面倒臭い……」
 吸血の契約は、等価交換でなければならない。生き血に相応しい対価を用意しなければ、吸血鬼としての名が廃る。面倒臭いけど、もう少しだけ調べてやろう。あたしに血を吸われ、疲れて寝ているミレイユのために。

      *  *  *

「続いて、デスモデーナ役を発表します」
 稽古場には『オセロ』の最終オーディションに残った役者が顔を揃えていた。スタッフが、オセロ役、イアーゴ役と結果を読み上げる。
「デスモデーナ役は……」
 エリカは固唾を呑み込んだ。名前を呼ばれれば、成功は約束される。それは他の女優達も同じこと。その日を夢見て、誹謗中傷や心の弱さと戦ってきた。
 だから名前を呼んでほしい。他の誰でもなく、エリカと。

 だが、エリカは違和感に気づいた。
「え……?」
 エリカの眼前で、先ほどと同じ光景が繰り返されていた。
 もったいつけるスタッフの間の取り方も、固唾を呑み込む周囲の仕草も、壁掛け時計の秒針の動きも寸分の狂いなく、まるで巻き戻した映画を再生したかのように、同じ時間が繰り返されている。
 デジャヴの一言では片付けられない。エリカは明らかに一度、現実(・・)を見た。デスモデーナ役の名前が読み上げられたはずだ。
 だが、肝心の女優の名前が思い出せない。背後に確かに居た女優の名前や顔、そしてその存在すらも。
シンシア(・・・・)。君がデスモデーナだ」
 シンシアが喜びの声を上げて、オセロ役、イアーゴ役に並び立つ。役者達は、先ほどの出来事などなかったかのように、シンシアを祝福する。

 おかしい。あり得ない――

 エリカは稽古場を飛び出していた。稽古に熱を入れるあまり、幻覚を見てしまったのかもしれない。自分は壊れてしまったのかもしれない。当て所なく走ったところで、エリカは自身に向かって突っ込んで来る大型トラックの存在に気がついた。死を覚悟した。

「気をつけなよ」
 まぶたを開けると、奇妙な少女がエリカを覗き込んでいた。我に返ったエリカは、目の前の光景を目撃して息を呑んだ。
 道路に横転した大型トラックに、無数のひしゃげた自動車。あまりにも凄惨な、自動車の多重衝突事故。巻き込まれていたらまず命はない。
「助けてくれたの……?」
「全員とはいかなかったけどね」
「あなたはいったい、何……?」
「あたしの方が知りたいよ」
 問いかけに答えず、少女は息も絶え絶えと言った様子で路地へ立ち去った。
「待って……!」
 追いかけても少女の姿は既になかった。地面に点々と続く黒いシミは、路地の途中で忽然と途切れていた。




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