「ひと息入れてはいかがかな?」
紙コップに入れた紅茶を手渡し、シルヴィアはモニタと格闘する女性社員をいたわるフリをする。その実が、ねぎらいなどとは真逆であることなど、彼女以下、この場で働く社員達は知る由もない。
「こんなに美味しい紅茶は初めてです」
「当然だ。それはオータムナル、重厚な風味が特徴の最も紅茶らしい紅茶だ。ダージリンの契約農園から取り寄せたSFTGFOPだよ」
「S……?」
「紅茶のグレードの話だ。Sは『スゴい』のSだよ」
シルヴィアの冗談に社員は笑った。だが、この差し入れの目的は数多い同僚達と打ち解けるためのものではない。その証拠に、談笑に応じるシルヴィアの意識は、アストラルクスを向いている。
――ヒントは、社員達の頭の中にある。
アストラルクスを通して社員の姿を見ると、頭部が表層意識にすげ変わる。つまり、思考を読めるようになるということ。この性質を利用し、社員のIDとパスワードを盗み見る、言わばアストラル・ハッキングだが、地道な手間の割に首尾は芳しくない。
談笑を終えて自席に戻ったシルヴィアは、手掛かりの少なさに頭を抱えた。
「こいつも空振りか……」
社員リストに手掛かりなしを示す二重線を引いて、次のターゲットに目星をつけていると、自席のコンピュータにメッセージがポップした。
『荷物が届きました。紅茶を煎れて待っていてください』
メッセージにOKと一言返信して、シルヴィアは苦笑した。
「潜入中だというのに相変わらずだな、マルゴット女史は」
話は、方針会議に遡る。
ヴァネッサらが吐き出した紫煙の立体映像と共に消え、強ばった面持ちのあかりが会議室を退出した後のこと。同じく議場を去ろうとしたシルヴィアは、エティアに呼び止められた。
「シルヴィアさん。貴方にはロンドン事件の追跡調査として、ツイングラム社の内偵をお願いしたいのですが」
数日前に勃発したロンドンでの同時多発ダエモニア事件。SNSツイングラムが引き金となった怨嗟の拡散は記憶に新しい。だが、シルヴィアはSNSの存在を最近知ったばかりだ。伝統には愛着を持てるが、新しい物には疎い。
「テクノロジー絡みなら、適任者が居るはずだが」
「彼女も参加予定ですが、指揮は貴方にお任せしたいのです。ツイングラム社には既に、偽名と貴方の席を用意しています」
「ならば承知した。メンバーは?」
エティアの発言より早く、隣に居たマルゴットが立ち上がった。
「私です!」
「は?」
シルヴィアは、瞳を輝かせるマルゴットを目を合わせて、眉間を摘まんだ。
「……失礼ながらマルゴット女史。貴方が留守の間、業務はどうなる?」
「だからこそ行くんです! 仮払いや経費精算が滞ったらどうなるか、いつまで経っても学ばない連中に教え込むいい機会です!」
鼻息荒く意気込むマルゴットの隣で、エティアは肩をすくめていた。
「本気なのか、エティア……」
「だって言っても聞かないんだもの~。とりあえず荷物はまとめておくから、お願いね」
シルヴィアの個室がノックされ、オフィスカジュアルを着こなすマルゴットが姿を現した。
「荷物というのはそれか?」
「ええ」と短く告げて、マルゴットは台車から荷物を降ろす。アンティーク調のトランクケースがゴトリと重厚な音を立てた。随分重そうだ。
「藤陰さんが手配したそうですよ。データセンター? にハッキングできないから、イントラネット? で内部からどうとか」
【教皇】のマルゴットは歴代第三位の長命だ。説明が的を射ないのも無理はない。
「使い方は?」
「さあ」
「さあって……」
何とも言えない沈黙を破ったのは、アストラルクスを伝って飛んでくるやかましい声だった。
『お小遣い貸してよシルヴィア~ッ! このままじゃ私達、自販機の隙間に手を突っ込むガールになっちゃうよ~!』
『お腹すいた~ッ!』
別働隊として派遣されたシャルロッテと舜蘭が、悲痛な声をあげていた。当然、その会話はマルゴットにも筒抜けだ。
「無駄遣いせず貯金しなさいと普段から言ってあったでしょう! 反省するまでお小遣いはナシです!」
『やだー! ママーッ!』
「ママじゃありません!」
マルゴットが事務作業から離れたらどうなるか。シルヴィアの懸念は現実のものとなった。激しい平行線の言い争いにアストラルクスとの同調を切ろうとした所で、「あだっ!」という悲鳴が聞こえた。
粗暴な『うるせえ!』に続いて、『死ねばいいのに』という心の声が届いた。二人に同行しているエレンとルーシアだ。
『シルヴィア、報告だ。今データセンターの前に居るが、どうもきな臭えぞこの会社。警備が厳重すぎる。それによ』
『アストラルクスから侵入できない。セフィロ・フィオーレ並の結界が巡らせてある』
『だから、そっちでどうにかしてくれないと電撃作戦できないよー!』
『進捗どうですか~』
念話は予想だにしないものだった。アストラルクスを知覚できない常人が、アストラルクスに結界を張り巡らせる訳がない。
「ではセキュリティの件は頼みますね、私は仕事が残っていますので」
「ちょ、ちょっと待てマルゴット女史! 私はどうすれば!?」
「藤陰さんの道具があれば大丈夫ですよ、私は仕事が残ってますので」
「貴方に何の仕事があると言うんだ――」
制止も虚しく、トランクケースだけを残して、マルゴットは逃げるようにその場を立ち去った。
「これを使ってどうしろと……」
ぽつんと残されたトランクケースを見下ろして、シルヴィアは頭を掻きながら立ち尽くす。雫に尋ねようにも、アストラルクス結界の話が出たばかりだ。念話も安全とは言えない。
そんな時、トランクがゴトリと音を立てた。
「な、なんだ……!?」
シルヴィアの声に呼応するかのように、トランクがゴトゴトと音を立てて揺れる。思わず一歩後ずさったシルヴィアの耳に、くぐもった声が届いた。
明らかに、何かが中に居る。
「そろそろいいかしら?」
「トランクケースが喋った!?」
「ごめんなさい、こちらからは開かないの。開けてくれる?」
「何を言って……」
あまりに不気味に揺れ続けるトランクを前にして、シルヴィアは覚悟を決めた。ゆっくりと近づき、留め金を外して慎重に、蓋になっている部分を持ち上げる。そこに居たのは――
「来ちゃった」
舌を出して悪戯っぽく笑う、下着姿のエティアがトランクの中に収まっていた。
「なっ、何をやってるんだ貴方は!?」
腰からひっくり返ったシルヴィアの前で、エティアは上体を起こして大きく伸びをする。煌びやかな長髪から覗く白い肩が、年齢を感じさせない程に艶めかしい。
「みんな頑張っているのに、私だけ留守番だなんて退屈でしょう?」
「退屈!? マルゴット女史にくわえて貴方まで席を空けるなど危機感の欠如で――」
「大丈夫ですよ、もしもの時はアリエルが居ますから」
「そう言う問題じゃないだろう!?」
あははと気楽そうに笑うエティアに、シルヴィアは肩を掴んで叫んでいた。だが、オフィスに聞こえるような大きさで叫んでしまったが運の尽き、何事かと社員が駆けつける。
「どうかしました――えっと……誰ですか……?」
沈黙が流れた。当然だ、扉を開けるとシルヴィアが、下着姿のエティアを抱き寄せているのだ。内偵をバラす訳にも、要らぬ誤解を与える訳にもいかない。頭をフル回転させて、シルヴィアは矢継ぎ早に告げた。
「ああいやこれは……ビスクドール! そう、ビスクドールだ! 実は隠していたんだがドール趣味で、せっかくだし飾りにと思って連れてきた訳だ! ハハ、ハハハ! とにかくスゴくリアルだろう!?」
同僚に悟られないよう、シルヴィアはエティアの素肌に頬ずりする。
「ああ、かわいいなあ! エティアは今日もかわいい! 君もどうだ!?」
「あー、遠慮しときますね……」
口角をひくつかせて、同僚社員は静かに扉を閉めて去っていった。決定的に勘違いされてしまい肩を落とすシルヴィアの一方で、エティアはくすくすと笑っている。
「ふふ、私ってそんなにかわいいですか?」
「頼むから気まぐれで動かないでくれ。こちらにも手はずというものがあるんだぞ……」
シルヴィアはペースを取り戻すために茶器の蓋を開けた。シャルロッテらの念話からペースを乱されることばかりで、茶葉が開き思わず鼻をしかめるような香りを放っている。渋くて飲めたものではない。
「気まぐれでもないのです。とある噂を耳にしたもので」
「噂?」
「この会社、ツイングラム社には、とある軍産複合体から多額の投資が行われていました。どこだと思いますか?」
シルヴィアの脳裏に、数ヶ月前の苦い記憶が蘇る。女学院、軍病院。その後の【正義】の血筋を賭けて戦ったかつてのライバル達との死闘や客船での殺戮。それらすべての出来事を裏で操っていた軍産複合体。
「まさか……」
エティアは、うって変わって真剣なまなじりで頷いた。
「そうです。かつてあなたが葬った元レグザリオ研究員。通称をオーキス」
シルヴィアの拳は堅く握られていた。
「噂といい、データセンターのセキュリティといい、この会社は奇妙です。調査する必要がありますね」
下着にカーディガンという出で立ちでトランクから立ち上がったエティアは、窓のブラインドを下げてからシルヴィアのデスクにもたれた。
「それはいいが……」
「どうかしました、シルヴィアさん?」
シルヴィアは視線を逸らした。
「まずは服を着てくれ、目のやり場に困る……」