シルヴィアは、自身のドッペルゲンガーと相対していた。白銀の長剣ばかりか、背後に浮かぶ銀騎士デュランダルの構えまでも一致している。
自分との対決。かつてオーキスの作り出したデュプリケートとの決戦にも似た緊張感が、握った白銀の剣を輝かせる。
だが、焦りはなかった。
――「対消滅は……なんて言えばええんやろ。自分と向き合うみたいな感じ? ですかね」
英国での新人研修時、対消滅について白金ぎんかはこう語った。『自分と向き合う』ことの曖昧さに他の新人達は首を捻っていたが、彼女――【正義】の使い手シルヴィア・レンハートにはこれ以上ないほどに充分、理解できた。
「正義は無数に存在する。人間ひとりひとりにそれぞれ正義があるように、正義は時に敵対することもある」
かつて敵対したオーキスは、婚約者を救うためにデュプリケート理論の礎を作った。人間を犠牲にすることで技術発展を願った彼のやりかたは褒められたものではなかったが、そこには彼なりの確固たる正義が存在した。
「ゆえに正義とは、問い続けなければならないものだ。万人のため、特定の誰かのため、あるいは己のため。他者の正義に共感すれば取り入れ、理想に反した際は、まずは理解を試みる。正義は常に変わっていくものだ。だが、変えてはならないこともある」
剣をより一層輝かせ、シルヴィアはドッペルゲンガーに向けて宣言する。
「対話をしよう、シルヴィア・レンハート。私の正義と貴様の正義、どちらがより人々を救うに相応しい正義か、決着をつけるぞ」
シルヴィアの宣言に、ドッペルゲンガーは剣とデュランダルを消滅させた。それどころか構えを解き、距離を取って後ずさる。
敵前逃亡。それがドッペルゲンガーの選択だった。
「さすがですわシルヴィア様! ドッペルゲンガーの戦意さえ喪失させるなんて!」
「なんかの作戦かもよ? あっちは【正義】の騎士様の真逆、とんでもない汚い手を使ってくるかも?」
シルヴィアの傍らに控えたミレイユに、その逆側に立つクリスティンが答える。【正義】の生き写しは敵前逃亡したと言え、タロット使い達4人は小さな輪を作って、それぞれに自身のドッペルゲンガーと相対している。絶体絶命の状況に変わりはない。
「参ったな……」
「心配ありませんわ、シルヴィア様はこのミレイユが命に替えても……!」
「いや、そうではないんだ。私が参ったのは、私に逃げられたことだ」
「シルヴィアちゃんならそう言うだろうと思いましたよ」
シルヴィアと背中合わせの万梨亜が小さく笑う。以心伝心した二人の様子から、「参った」発言の真意に気づいたのはクリスティンだ。
「あなたまさか、敢えて対消滅してこの状況を打破しようとしてたの……?」
「そうだが?」
「敢えての対消滅!? 平気なのですかシルヴィア様!?」
「何か問題があるか?」
事もなげな様子のシルヴィアに、ミレイユは「問題って」とだけ呟いて続く言葉を呑み込んだ。ミレイユもまた、ぎんかの口から対消滅について話は聞いていた。ただ、対消滅の危険性を訴えていたエティアの発言から、その有用性に関しては考察が抜け落ちていた。それは、かつて対消滅したという誤情報を流したクリスティンも同じだろう。
「心配は要らないさ、ミレイユ。私は常に正義と向き合っている。アイオーン空間での死闘など取るに足らないことだ」
シルヴィアは、自分が守るまでもなく、あっさり対消滅して戻ってくる。ミレイユに浮かんだ表情はそんな、勝利を確信したものだった。
「シルヴィア様……一生ついていきますわ……!」
「じゃあ私もただ乗りしていい? 対価は私の身体でどう?」
「く、クリスティンさん!? やはり貴女もシルヴィア様を……!?」
からかわれていることに気づかず必死の形相で訴えるミレイユに微笑んで、万梨亜は背中越しに告げた。
「逃げちゃったドッペルゲンガーを捕まえなきゃいけません。フェンリルちゃんをお貸しします」
万梨亜がペットの名を呼ぶと、青白い狼が顕現した。お行儀のよい「おすわり」を見せる召喚獣・フェンリルの頬を撫で、万梨亜が命じる。
「シルヴィアちゃんを頼みます。私の大事な人ですから」
フェンリルは頼もしく一つ咆哮し、シルヴィアに「乗れ」とばかりに背中を見せた。
「しかし」
フェンリルに乗り、ドッペルゲンガーを追えば、彼女ら3人は危機に直面することになる。その事実がシルヴィアの判断を鈍らせていたのだ。
シルヴィアの背を押したのは、クリスティンだった。
「行ってきなよ、シルヴィア。そうそう、私達の心配なら大きなお世話だから。貴女に守ってもらえなくたって、こっちはこっちで上手くやるわよ」
敵は3人それぞれのドッペルゲンガーにくわえ、逆位置アイオーンとなった霧依だ。霧依が居るため形勢は不利だが、すぐに敗れてしまうほど3人は弱くない。
ミレイユ・皇。自分を慕ってくれている【女教皇】の使い手。鉄壁の守りは他の追随を許さぬ実力者だ。何故だかいつでも近くで見守っていてくれて、あの手この手で支援をしてくれる友人でもある。いつか恩を返したいところだが、彼女は何をすれば喜んでくれるのだろう、難しいものだ。
クリスティン・アイボリー。本来はメーガンの部下だが、利害の一致を理由に協力してくれる【恋人】の使い手。多様な価値観を理解することの大切さを身をもって教えてくれた悪友だ。いずれ正義について語り明かしたいが、おそらく煙たがられて終わりだろう。
そして、優希万梨亜。【女帝】の使い手。強弁で強硬な女王様が多かった【女帝】の血筋にしては珍しい、柔和で温厚な大和撫子。離れていても言葉がなくとも通じ合える、強いところも弱いところも互いに知り合う関係にあるものは彼女以外には居まい。彼女のためにも、帰ってこなければと思う。
「私達を信じて、貴女の正義とやらを証明しておいで」
「きっと戻って来てくれるって信じています」
「永遠にお慕い申しております、シルヴィア様!」
3人に背中を押され、シルヴィアはため息をついた。危険を恐れない姿勢に呆れたのと、自分を信じて送り出してくれる部下の存在に対する安堵のものだった。
「すぐに済ませて戻ってくる」
シルヴィアが飛び乗るや否や、フェンリルはアストラルクスを疾走した。北欧神話に謳われる神族と巨人族の古戦場を、青白い狼が駆け抜けていく。
「……これでシルヴィアの肩の荷が下りたわね」
遠ざかるシルヴィアを見送って、クリスティンは所在なさげに自身の髪の毛を弄んだ。
「ええ。私達が居たら、シルヴィアちゃんは全力で戦えない。強くて、優しすぎるから……シルヴィアちゃんはいつだって私達を守ろうとしてしまう」
部下を守ろうとしたシルヴィアと、当の部下達の意志はすれ違っていた。だが、それはお互いを想うからこその決意でもあった。
「……足手まといであることは自覚していますわ。だからこそわたくしは、シルヴィア様を守れるような存在になりたいのです」
「奇遇ですね、ミレイユちゃん。一緒にシルヴィアちゃんを守りましょうね」
何の屈託なく微笑む万梨亜に、ミレイユは大きくうな垂れた。
「貴女には負けそう……ですが! わたくしは負けません!」
「それじゃ、私達3人はライバルってことでいいわね?」
「くっ、クリスティンさん!?」
姦しい3人の足元に、投擲されたメスが突き刺さった。
「シルヴィアの話はその辺で終わり。今度は私と愛し合おうか!」
霧依の言葉を合図に、危うい均衡がとうとう崩れた。【女教皇】、【恋人】、【女帝】のドッペルゲンガーが、それぞれ目がけて攻撃を開始した。
* * *
フェンリルの青白い背の上で、シルヴィアは逃走を続ける【正義】のドッペルゲンガーを捉えた。同じ能力を持った生き写しと鬼ごっこをすれば、本来ならば永遠に勝敗はつかない。フェンリルのお陰だ、とシルヴィアは思う。
「送り出してくれた彼女らのためにも、私は……!」
背の上に立って、前方をひた走る生き写しの黒い足元を見据えた。じわりじわりと白銀の剣を突き刺せる間合いまで詰めていく。
彼我までの距離――3歩……2歩……よし!
「私はすべてを守るッ!!!」
力強く、フェンリルの背を蹴って跳躍した。真っ直ぐ、生き写しのふくらはぎを斬りつける。それだけをイメージし、白銀の剣を握る腕に力を込めた。
――その時だった。
「まだまだ爪が甘いねえ、お前さんは」
聞き覚えのある声――ヴァネッサのものだ。
途端、見開かれたシルヴィアの目は、眼前を走るドッペルゲンガーの体躯が横殴りにでもされたように吹き飛ばされる光景を目撃した。
「何!?」
シルヴィアが狙った場所には、もう生き写しは居ない。咄嗟に空中で体勢を整え、アストラルクスの大地に着地する。
立ち上がったシルヴィアは、大地に倒れ伏した生き写しの姿と、それを踏みつけて身動きを封じている――逆位置のアイオーンとなった――部隊長、ヴァネッサの姿を見留めた。
「貴女もメーガンの手に堕ちたか、ヴァネッサ」
「いいや、違うね。私は私の意志で、こっちになった」
ヴァネッサの瞳は、嘘をついていない。シルヴィアは直感した。
「何故?」
「タダで教える訳にはいかないね。ふたつばかり条件を出したいんだが、どうだい?」
言ってヴァネッサは、足元でもがいている【正義】の生き写しに、観念しろとばかりに得物を突きつける。
「構わないが、まずは対消滅だ。その【正義】の生き写しを渡して貰いたい」
「話が早いね、シルヴィア。第一の条件はそれ、お前さんの対消滅だ」
おそらく、メーガンの指示だろうとシルヴィアは感じた。タロット使い全員の対消滅の果てに何が待っているかは分からない。だが、3人を守るためには対消滅の――正位置アイオーンの力が必要だ。
「承知した。それで、第二の条件は?」
歩み寄ったシルヴィアに、ヴァネッサは首を振る。
「戻ってきたら教えてやるよ。なに、ちょっとばかりワガママに付き合ってもらうだけさね」
「ワガママ」という言葉が妙に心に残ったが、シルヴィアは頷いた。迷うことなく白銀の剣を握り直し、ヴァネッサの足元から逃れられないドッペルゲンガーに向けて宣言する。
「シルヴィア・レンハート、参る!」
まるで大地に突き刺すように、シルヴィアは白銀の剣を生き写しの身体めがけて突き刺す。瞬間、シルヴィアの意識はアストラルクスからさらに上層――アイオーンへと上昇した。