幻影に舞う白銀

Web novel GENEI NO MESSIAH

第二章 幼き星は白銀に煌めく/07

市内4劇場で同時に幕が上がった。『ハムレット』、『リア王』、『マクベス』、そして『オセロ』。四百年前に上梓された四大悲劇は、人間が胎む道徳上の悪――七つの大罪をあぶり出した、今も読み継がれる傑作だ。それはすなわち、四百年前から人間がなにひとつ進歩していないということの表れでもある。

後方の座席で、エリカは自らが立つはずだった舞台を眺めていた。視線の先にあるのはデスモデーナ役のシンシア・ミレディ。妖艶でいて貞淑、相反する魅力を持つからこそ舞台に立っていることは、悔しいながら理解できた。
だがあの時の、事故の記憶がエリカの脳裏から離れない。まるで、シンシアを妬む敗者が人知を越えた呪いとなって襲いかかってきたようで――。
「ああオセロ。せめて祈りを捧げるだけでも」
――まだ、物語に引きずられている。あり得ない妄想を奥底にしまい込んで、エリカは舞台に集中した。終盤の第五幕、オセロが妻のデスモデーナへの猜疑心に駆られ、首を絞めるシーンに差し掛かっていた。
「もう遅い。遅いんだ……」
舞台上のオセロは、第四の壁の向こうにいる観客達を引きつけるべく、己の苦悩を表現する。だが、観客達が自然と前屈みになったのは、彼が真に迫る芝居をしたからではなかった。
「様子がおかしいぞ」
観客の一人が叫ぶ。オセロの芝居は、真に迫りすぎていた。これは舞台演出ではない。気づきざわめく観客達の前で、オセロは膝から舞台に崩れ落ちた。そして叫ぶ。
「俺は、この舞台に立つ実力がない……地位も名声も、資格すらない……!」
「台詞が違う……」
役者の悲痛な表情の奥底にある想いが、エリカには自分のことのように理解できた。批判で自信を失うと、心は錯覚する。この世すべてから批判されているような恐ろしい妄想にとらわれる。
「やめろ見るな! 俺を見るな……実力も資格もない、愚かな俺を見るなァ!」
突如、下ろされ始めた幕が吹き飛び、落下した天蓋が前列の観客席を押し潰した。
観客のざわめきは悲鳴に変わった。まだ悲鳴としての体裁を為しているだけましだった。前列席は、目には見えない強大な力によって、まるで戯曲集のページを指でめくるようにペラリ、ペラリと折り畳まれた。人生という名の長い物語はここで終わりとばかりに、次々と座席がめくられ、折られ、観客達は為す術なく読了(・・)されていく。
「なに、あれ……」
未曾有の事態に為す術のない観客達の中、エリカだけは事件の真相を知ることができた。座席を押し潰す、劇場二階席に達しようかという大男。その正体をエリカは知っていた。
怪物は、オセロ役の俳優。彼が巨大化する瞬間をエリカはその目で目撃していたのだから。
「エリカ」
名を呼ばれて振り向くと、デスモデーナ姿のシンシアが立っていた。
「無事だったんですね、とにかく逃げましょう!」
シンシアに手を伸ばすも、腕は払いのけられた。美しいシンシアの顔は、激しい嫌悪に歪んでいた。
「才能のない人間が私に触れないで」
時が止まったように感じた。この人だけは自分を批判しない、そう信じていた人物に心を抉られて、思考が真っ白になる。
「あら、そんな表情もできたのね。下手クソ(・・・・)なんて書き込んだことは訂正するわ」
シンシアは笑った。背筋が凍るほどのおぞましい笑顔を見せると、両手をエリカの首筋にあてがう。
「あなたのその顔、最高ね。私以上の芝居をするなんて、許せない……ッ!」
「シン、シアさん……!」
払いのけることはできなかった。彼女の握力は、エリカにどうこうできるものを越えていた。首筋に伸ばされたシンシアの腕は不自然に膨らみ、座席を潰して回る怪物のように変容していく。艶めかしい体躯に、ハッキリした顔立ち。彼女の美しい輪郭線は、熱せられたプラスティックのように変形し、見るも無惨な異形へと変化する。
「……私ヨリ美シイナラバ、死ネ!」
緑色の瞳をした、人を喰らう怪物。かのシェイクスピアはそれを嫉妬と呼んだ。

「だから気をつけてって言ったっしょ」
瞬間、怪物の両腕が宙を舞った。エリカの視界に割り込んだのは、血の気の通っていない青白い顔の少女だった。
「あなたはあの時の……」
「いいから隠れて!」
少女に手を引かれ、エリカは劇場の物陰に隠れた。両腕を失ったシンシアだった怪物は悲鳴を上げた後、八つ当たりとばかりに周囲の観客をなぎ倒し始める。
オセロ役の大男と、シンシアだった嫉妬の怪物。存在しない『オセロ』第六幕、凄惨な宴が始まった。

*  *  *

ロンドン郊外、田園風景の道をシルヴィアはバイクで疾走していた。メーターが振り切れることも厭わず、グリップを捻りエンジンを吠えたぎらせる。

『こちらシルヴィア。全員、戦況を報告しろ!』
「王様と戦ってる真っ最中よ!」
アストラルクスを伝う念話に最初に答えたのはクリスティンだった。
『リア王』の舞台中に突如発生したダエモニアは、演目そのものだった。自らの傲慢さ故に人々に見捨てられた憐れな王。肥大化した傲慢さを象徴するように、無数の王冠を体内に埋め込んだ巨躯の怪物が劇場内部で暴れている。
「傲慢な男なんてこっちから願い下げだわ」
薔薇の花弁をダエモニアに叩きつけて動きを止めると、クリスティンは目を凝らした。怪物の体躯から伸びた銀糸を見つけると、言葉を送る。

『糸を見つけた! そっちは!?』
「こっちも見つけたわ。新型みたいね」
『マクベス』の劇場で、カボチャ型の小型爆弾を振りまきながらメルティナが応じた。劇場を占拠するダエモニアは、黒いローブをはためかせて不気味な高笑いを続ける嵐の魔女。放った爆弾を、そしてメルティナもろとも地面に叩き落とそうと暴風を叩きつけてくる。

『魔女対決で苦戦してるところよ。万梨亜達は?』
「同じく苦戦中です! フェンリルちゃんっ!」
蒼い毛並みの幻獣が、劇場の壁を突き破って飛び込んできた。『ハムレット』の劇場で発生したダエモニアは、燃え盛る炎をまとった復讐鬼だ。
「万梨亜さん、援護します!」
万梨亜の傍らで、るなが淡い緑光と共に蔦を茂らせた。蛇のように地を這う蔦がダエモニアの足元に絡みつくも、憤怒の炎に灼かれて灰に変わってしまう。
「灼かれても、少しなら止められますから!」
それでもるなは蔦を伸ばし、何度となく復讐鬼の動きを封じに掛かる。そうして作った一瞬の隙を突いて、フェンリルがダエモニアの喉元に飛びかかる。
「るなちゃん、糸は見えますか!?」
「私には見えません……!」
「なら、フェニックスちゃん! 糸を焼き切って!」
万梨亜の呼びかけに応え、炎を伴って幻獣フェニックスが現れる。ダエモニアの背後をひらひらと舞う細い糸へ向けて、フェニックスは飛翔する。

『シルヴィアちゃん! ミレイユちゃんとせいらちゃんから連絡がありません!』
念話のリレーは、現実世界のシルヴィアに戻ってきた。ロンドン市内、対向車線を全速力で逆走しながら、シルヴィアは『オセロ』の劇場に出撃したはずのミレイユとせいらに問いかける。
「聞こえるか、ミレイユ! 星河!」
だが、返事はない。言葉が届かないのは、限界まで意識を集中しているからか、あるいは。最悪の可能性を頭の中から排除して、シルヴィアはバイクを大きくバンクさせて進路を変えた。
「総員に通達! ダエモニアを殺さず救え!」
『無茶言ってくれるわね。王様の相手は大変なのよ!?』
『あら、貴女の好きな男性じゃない? 魔女の相手よりは堕とし甲斐があるでしょう?』
『もちろん助けてあげたいですけど……きゃあっ!?』
各劇場で必死に戦う部下達の心の声を聞いて、シルヴィアは歯噛みした。『ダエモニアを殺さず救え』という命令が、部下達に余計な手間を掛けさせている。ふよふよと不規則に漂う糸は、捉えるにも断ち切るのも難しい。苦戦は必至だ。
「不可能と判断した場合は」
――糸を無視してダエモニアを討伐せよ。続く言葉を躊躇したシルヴィアに、再び念話が届く。
『諦めません! 約束しましたよね、ダエモニアを救いたいって!』
「万梨亜……」
『しょうがないわね。今日はあなたの正義とやらを貫いてあげる!』
『そうねえ。私もいろいろ試したいマジックアイテムがあるし?』
「クリスティン、メルティナ……」
万梨亜達は、シルヴィアの理想を――正義を信じて戦っている。ロンドン支部長であるシルヴィアの部下として、懸命に未曾有のダエモニアを救おうとしている。

――部下を信じ、部下を護れ。そうすりゃみんなお前についてくる。

東欧支部でヴァネッサから貰った言葉が蘇った。あの時は意図の分からなかった言葉が、ようやく意味を持った教えに変わる。仁義、徒党、ファミリーの組み方。
ヴァネッサが説いたのは、シルヴィアをより高みへ引き上げる激励だった。
「……まったく、敵わないな」
念話には乗せず自嘲して、シルヴィアは現地で戦うタロット使い達の顔を思い浮かべた。普段の笑顔や、純粋な少女達の姿。そんな彼女らの無事を信じ、身を護れる者になりたい。
『シルヴィア支部長、不躾かもしれませんが……せいらさんを助けてあげてください!』
るなから飛び込んできた念話に、シルヴィアは決意を新たにした。
「ああ。私の仕事は、部下を護ることだ!」




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