余津浜郊外。
草木が鬱蒼と茂った山中で、あかり達はエティアのセーフハウスを見つけた。永瀧支部のような洋館とは趣きを異にする小屋は、絵本に登場する魔女の家にも似た雰囲気を漂わせている。
エティアは、軒先のベンチにひとり座っていた。そして、あかり達の登場を知っていたかのように、弱々しく微笑む。
「皆さんは、まだ対消滅していないようですね」
「対消滅していた方が都合がよい、と言っているように聞こえます。エティア殿」
表情には出さないものの、せれなの口調は刺々しかった。レグザリオ、メーガン、そしてエティアが通じていたことが明るみになった今となっては、無理もない。
「説明してください、エティアさん」
あかりの言葉に、エティアは瞑目した。だんまりを決め込むつもりかもしれない。
「うちらをのけ者にするような人やとは思えん。何かきっと理由がある、ちゃうんですか、エティアはん」
「そうですね」
エティアは静かに告げて、古ぼけた本を持ち上げた。流麗な筆記体は擦れて読めないが、それが真相に関するものだということはつぶさに理解できた。
「初めから分かっていました。レグザリオの計画も、メーガンが彼らと内通していることも、デュプリケートに仕掛けられた細工も。そして、今の状況も」
「どうして黙っていたんですか……」
「その前に、私の母の話をしてもよいですか。エレメンタル、ディアボロス44枚のタロットの生みの親で、レグザリオすら創り上げた稀代の錬金術師、アリエッティ・ヴィスコンティのことを」
皮製の表紙を愛おしむようにひと撫でして、エティアは遥か1500年前の記憶をゆっくりとたぐり寄せ始めた。
* * *
アリエッティ・ヴィスコンティは、錬金術師としては天才でした。強きをくじき弱きを癒やす、誰にも顧みられない人々に救いの手を差し伸べる、さながら救世主のような存在でした。
ですがその一方で母としては――育ての親を悪く言いたくはないですが、最悪の存在でした。
母はよく言っていました。「偉業のためには犠牲が必要なのだ」と。
世のために働く母の偉業の数々を垣間見て、それを刷り込まれて育った私は、当たり散らされても、どんな理不尽な扱いを受けても、「偉業のための犠牲だ」と思って耐えてきました。今の価値観に照らせば褒められた親子関係ではありませんでしたが、あいにく時代が違います。当時の欧州は、動乱と退廃に満ちた暗黒時代。親元を離れた稚児の行き着く先は死よりもひどい結末でしたから。
つまり当時の私は、世の人々を救うための犠牲だったのです。
そして歳月が流れ、私が今の姿にまで成長したある日のことでした。
「来なさい、エティア」
母に呼ばれた私は、これまで立入を許されなかった書斎の扉を開けました。書籍、羊皮紙の束、各種素材が整然と片付けられた部屋の最奥で、彼女は珍しく嬉々としています。手元には、22枚のタロットカードが仄暗く不気味に輝いていました。
「お母様、そちらは?」
「天災、人災、この世すべての災いの根源はどこにあると思う?」
質問にどう答えたのかは覚えていません。ですが、次の言葉だけは忘れもしません。
「これは、大自然の脅威を紐付け、封じ込めた依代。名を付けるなら、ディアボロス」
私は尋ねました。
「それがどう、人々を救うことになるのですか」
「人の手に負えなかった大自然の驚異が、人に知覚できる依代になった。このタロットを呪えば、脅威を克服できるということよ」
母が提唱したのは、後の世に類感魔術と呼ばれる方法。言わば、藁人形に釘を打ちつけて相手を貶める呪いと同じものです。彼女はそれと似た方法で、人々を貶める脅威の依代、ディアボロスタロットを呪い、皆を救うつもりでした。
ですが。
「無理に抑え込んだから、暴れているわね」
22枚のタロットは、のたうつように机の上で暴れていました。超自然的な存在がディアボロスタロットという檻から必死で抜け出そうとしているような、そんな印象です。
「お母様、私は……」
怖い。私が抱いた感想は、ただただそんなものでした。母は本物の錬金術師で、ペテンを使う詐欺師でないと知っていたから余計に、です。ディアボロスも、そして大自然すらも手玉に取る彼女の才能に私は恐怖を覚えました。
そして恐怖を覚えてしまったがために、私はディアボロスタロットに目を付けられてしまった。
「エティア、危な――」
そこからの記憶は曖昧です。覚えているのは、ディアボロスタロットの一枚が、私を目がけて飛んできたこと。霞む視界の中で、母が必死の形相で私に叫んでいたこと。
そして、私は意識を失います。目覚めた時には、世界が変わっていました。
「目覚めてくれた……エティア……」
私を覗き込んでいたのは、変わり果て、老婆となった母でした。
長い歳月が経っていました。何年も何十年も。その間に施政者が何度も変わりました、街も人も変わっていました。それでも私の姿は、気を失う前と何も変わりません。
そこでようやく私は、自分が世界から取り残されたのだと気付いたのです。
母アリエッティは、私が目覚めた途端、姿を消しました。まるで私を目覚めさせることが目的だったというように。たったひとりになった私に残ったのは、母の日記とあばら屋、そして22枚の新しいタロットカード、エレメンタルタロットだけでした。
* * *
ひとしきり話すと、エティアは顔を上げた。潤んだ瞳が、エティアから母親への複雑な感情を雄弁に物語っていた。
「その後は、母の日記に従い行動しました。アストラルクスへ向かう方法、ディアボロスタロットの出現に伴うダエモニアへの対処法、エレメンタルタロットの使い方と、その適格者を探す方法」
エティアが古びた本――アリエッティの日記を開いた途端、ページが滑り落ちた。それを拾うこともせず、エティアは続ける。
「苦難の道程でした。何度、己の境遇を呪ったことか知れません。それでも私は、日記にあった母の『救済計画』を実現するため、長い年月を戦い続けました。なにせ、母が創り上げたディアボロスタロットは、人間の負の感情を喰らうダエモニアを生み出してしまうのです。母が産み落としてしまった汚点は、娘である私が濯ぐしかなかったのです」
「そんなこと……」
それに続く言葉を、あかりは持ち合わせていなかった。
エティアは、あかりと同じなのだ。親が生み出してしまったモノに翻弄されている。そう気付いた途端、エティアにかける言葉が見つからない。
「母の創った組織レグザリオに協力を取り付け、セフィロ・フィオーレを立ち上げました。最初の協力者、アリエルに出会いました。その後も増減を繰り返しつつも協力者は増えていきました。もちろん、彼女ら協力者は知りません。ダエモニアと戦うのは建前で、本当はディアボロスタロットを滅ぼすことが目的であるなどと」
「そして、あかりが現れた」
せいらの言葉に、エティアは頷く。
「ひなたが死に、【太陽】の血筋が途絶えたかと思いました。ですが、運よく……あるいは運悪く、その娘が【太陽】の適格者だった。くわえて、ぎんかさんの対消滅で【節制】のディアボロスを滅ぼすことができた。救済計画のピースがようやく、すべて揃ったのです」
「じゃあ救済計画は……対消滅でディアボロスタロットを滅ぼしてみんなを救うこと、ですか……?」
エティアは瞑目し、首を横に振った。
「レグザリオの計画は違っていました。彼らの狙いは対消滅ですが、ディアボロスタロットを保持することです」