「ぐえっ!」
せいらの弩で飛ばされたあかりは、盛大にアストラルクスの地面に激突した。とっさに着地の衝撃を和らげるようイメージしたからいいものの、もし間に合わなければアストラルクスに漂う魂のひとつになっていただろう。
「無茶苦茶だよ、せいら……」
なんとか体を起こし、あかりは正面を見上げた。遠方では針ほどの細さだったセフィロトは、近づいてみると余津浜の高層ビルをも呑み込む太い幹だと分かる。相当の時間と距離を稼げたらしい。
「……うん。救世計画を止めなきゃ」
救世計画を止める――セフィロトの倒し方など知らないが、幹を伐れば木は倒れる。あまりに雑な論理だが、他に何か妙案がある訳でもない。立ち上がるや否や精神を統一し、あかりは炎の刺突剣を構え、眼前に迫った巨大な幹に突き立てようとした。
「……どうして救世計画を邪魔するんですか、あかりさん」
振り向くと、るなの姿があった。感情の宿っていない双眸であかりをまっすぐに捉えている。
あかりは直感した。
るなもまた、せいらと同じように逆位置側のアイオーンと化してしまったのだと。
「どこまで知ってるの……?」
「……セフィロトに関する、すべてです。メーガン部隊長が教えてくれました」
あかりが聞き及んでいた通り、セフィロトは肉体から魂を吸い上げ、天国や地獄と呼ばれる領域に連れて行く。この巨樹がある限り、世界の滅亡は避けられない。
「あかりさんはきっとここに来る。そう思って待っていたんです」
「私を止めるために……?」
「…………はい。考え直してもらえませんか」
るなの訴えに、あかりは言葉を呑み込みかける。親友の頼みだ、無碍にはしにくい。それでも、セフィロトの実態を聞いてしまった以上、後戻りはできない。
「人をみんな魂に変えるなんて許せないよ。るなちゃんだってそうだよね?」
「……わたしは、せれなお姉ちゃんと一緒に居たいです」
「え……」
続く言葉がなかった。
せれなはあの時、メーガンの命を受けて確かに――。
「……せれなお姉ちゃんは、アストラルクスのどこかを彷徨っているはずです」
「でもせれなは――」
「死んでいません! せれなお姉ちゃんは死んでなんていません! 強くて格好良くて、いつもわたしを守ってくれたお姉ちゃんが……死ぬはず……!」
泣き崩れたるなの身体が、変容を始めた。頭髪を覆う帽子の隙間から肉食獣の耳らしきものが生えだし、ストレートの髪の毛が逆立つ。
「……わたしはお姉ちゃんに再会できて嬉しかったんです。またあの頃の――平和で穏やかだった子どもの頃に戻れた気がして。どんな辛いことからも守ってくれるお姉ちゃんがそばに居てくれるんだって……」
顔を上げたるなは、獣へと姿を変えていた。
「だからもう……お姉ちゃんを失いたくない……。たとえ魂になったとしても、わたしはお姉ちゃんと一緒に居たい……」
人のものではない尖った爪を鳴らして、るなはあかりを見据える。その姿はもう、月詠るなではない。小動物を狩る獣そのものだった。
「セフィロトを伐れば……お姉ちゃんの魂は還ってこれなくなっちゃう……」
アストラルクスに浮かぶ魂は、何もセフィロトが吸い上げたものだけではない。その前後で死んだ者も、いったんアストラルクスに留め置く。仮にセフィロトを伐れば、そのせいで魂となった者は元に戻るが、無関係な者はそのまま死んでしまう。
世界じゅうの命とせれなの命。ふたつを天秤にかけて導き出したるなの結論が、あかりの胸を貫いた。るなの気持ちが分かる以上余計にだ。
「るなちゃん……」
「……分かってるんです、こんなのダメだって。タロット使いなら、みんなを助けないといけない。なのにわたしは、お姉ちゃんだけを……」
これは逆位置アイオーンの性質かもしれない、とあかりは思う。るなにしてもせいらにしても、まるで昔の――息が詰まる頃に戻ってしまったみたいで。
「……私は、みんなを救いたい。せいらも、ぎんかも、るなちゃんも、タロット使いのみんなも……それに、お世話になった人達も大好きだから」
「わたしだってそうです……!」
涙をいっぱいに溜めて、るなは叫ぶ。
「だけど……。だからセフィロトを伐るって、あかりさんが言うなら……」
苦悶の表情を浮かべ、るなはうずくまった。獣じみたうなり声を上げ、小刻みに震えている。その姿が、自身の内に潜む獣を必死に制している――ようにあかりには見えた。
「わたしは、あかりさんを止めます。獣に身をやつしてでも……」
「…………」
方法はないだろうか。せれなも全人類も、そしてるなも救える方法は。悲しみに支配された親友の姿など見たいはずがない。だが、セフィロト――明らかに異質な巨樹を伐り倒す以外に、世界を元に戻す方法は思い当たらない。
「……るなちゃんを倒すなんてできないよ」
「わたしもです。大切なあかりさんを傷つけたくありません……。だけど、他に方法は――くあっ!?」
るなは言葉を止めた。そして、咆哮。押しとどめていた悲しさが、獣となって吠え立てる。るなの人格は瞬時に獣に塗り潰され、穏やかだった瞳は獰猛に光った。
「グルルルル…………」
瞬間、獣は一気に距離を詰め飛びかかった。
「るなちゃんッ!」
強烈な突進だ。我を失った獣の、大ぶりな攻撃があかりを掠める。フェイントのない素直な打撃は避けること自体は簡単だ。だが、あかりには止めることができない。獣とは言えど彼女の正体はるななのだ。
るなは泣いていた。悲しみのあまり獣と化したるなの叫びは、あかりにも痛い程理解できる。あかりにできることと言えば、一撃で致命傷たりうる獣の猛攻を必死に避けることだけ。
――るなちゃんと分かり合う方法はないの?
考えを巡らし、あかりはセフィロトに脇目を振る。上端が伺えないほどに天高く伸びたセフィロトを伐ることができれば、るなも諦めがつくかもしれない。悲しみという原動力を失えば獣は消えて、るなも元に戻る。
だけどそれで、るなを救ったことになるのだろうか。
悲しい獣の心臓目がけ、せれなが戻らないことをナイフのように突き立てることは本当に救いなのだろうか。
「ガアアアアアッ!!」
悩んでいた不意を突かれ、あかりの脇腹に爪が食い込んだ。鈍い痛み。血が流れる訳ではないが、繊細に織り上げたテネブライモードのイメージが霞んでいく。
「るなちゃんも……救いたい、のに……」
冬菜の姿があかりの脳裏を過ぎった。
もう二度と、冬菜のような犠牲者を出さない。そのためにタロット使いになる決意をして、人々を救うために人々を殺してきた。
世界を――大多数を救うためには、少数の犠牲はつきもの。
――殺すことでしか救えないの?
覚束ない足取りで距離をとり、刺突剣を構えて獣を捉える。獣は攻撃を緩める様子はない。人との衝突を好まない月詠るなの心は、悲しみで覆われてしまった。
るなを殺せば、セフィロトを伐ることができる。
るなを殺せば、世界を救える。
おぼろげな脳内で、半身のダエモニアが叫ぶ。
――これまでも、そうしてきただろう?
「……そんなの、絶対に嫌だから!」
あかりは飛びかかってきた獣を受け止めた。勢い余って押し倒されたが、両腕をしかと掴んで離さない。牙を剥き出しにして吠える彼女に、あかりは告げる。
「一緒に来て、るなちゃん。私は世界もるなちゃんも救う」
「グルルルル……ッ!!」
あかりの言葉は、獣には届かなかった。
のし掛かってくる獣から這い出て、手を引いて走り出す。抵抗されて何度となく背中を切り刻まれても、あかりは構わなかった。こうする以外に、全てを救う方法はなかったからだ。
――セフィロトを伐って、せれなの魂を探す。
あかりの辿り着いた結論は、一見すると矛盾したものだ。セフィロトを伐ればすべての魂は元の場所に戻る。だが、生者の魂と違って、死者の魂はしばらくアストラルクスを漂う。その間に見つけ出すことができればいい。
せれなを見つけたところで、待ち受けているのは別れだけではあるが。
「お願い、タロットとダエモニア……力を貸して。私は……セフィロトを伐るッ!」
握られた炎の刺突剣は、幅広の剣に姿を変えた。少しでもセフィロトに傷を付けたいという意志が形作った武器だ。背中を引き裂こうとするるなの爪を必死に耐えて、巨樹の幹へ向けて刃を突き立てた。
「くっ! でもっ……!」
剣によるひと薙ぎでは、わずかな傷がつくだけだ。セフィロトは高層ビルをも呑み込むほどの太い幹に成長している。このペースでは間に合わないどころか、るなに食い殺されてしまう。
それでもあかりは諦めない。一度でダメなら二度、三度と幹を斬りつける。もはや斬るというより、叩いているような様相だ。セフィロトの傷よりも、あかり自身の傷のほうが大きく、深くなっていく。
――諦めたくない……!
何度剣を振るっただろう。
倒れる気配すらないセフィロトとは対照的に、あかりは地面に膝を付いた。手からは剣がこぼれ落ち、獣の付けた傷は何故まだ意識があるのか分からないほどに深い。
必死の思いでこぼれ落ちた剣に手を掛けようとしたところで、あかりの視界はブラックアウトした。大地に倒れたのだ。立ち上がる力ももう残っていない。気力を振り絞っても、タロットもダエモニアも気勢を上げることはない。
なけなしの力で仰向けになる。悠然と聳えるセフィロトと、自身を見下ろしているるなの姿が視界に入った。
「…………動いてよ、私の身体……ッ!」
トドメとばかりに、獣が腕を振り上げる。
「……イヤだよ、そんなの…………!」
死力を尽くし、あかりは刺突剣を握る。迫り来る獣の爪に合わせるように剣を構えた。
ほとんど本能に近い行動だ。剣の切っ先の行方は分からない。不運にも獣を――るなを貫いてしまうかもしれない。
るなを傷つけることだけはしたくない。
だけどこのまま、誰ひとり救えず死にたくもない。
なら、とるべき方法は――。
「諦めないからーッ!!!」
「そうだ! 諦めるな、太陽あかり!」
すぐにでも、獣の一撃がくるだろう。痛みを覚悟して瞼を閉じたあかりの予想は外れた。
獣の一撃は来なかった。
代わりに聞き覚えのある声と、温かいイメージが身体に注ぎ込まれる。
「いったい、何が……?」
重たい瞼をゆっくり開くと、かつての仲間達が居た。
【正義】の使い手、シルヴィアとその部下達。そして、ぎんかとせいらが悲しい獣と化したるなを食い止めている。
「遅くなって済まない! シルヴィア・レンハート、救世主の支援を開始する!」