幻影に舞う白銀

Web novel GENEI NO MESSIAH

最終章 幻影のメサイア/17

「あか、り……さん……?」

エティアの背後に浮かぶ【世界】に、あかりの剣が突き刺さった。タロットの表面には無数のひび割れが奔り、まだらな光が亀裂から零れる。

「……これで、エティアさんはタロット使いじゃなくなりました」

燃える剣を手放して、あかりはエティアの手を握る。握っておかないと、エティアの身体はアイオーン空間で姿を保てないのだ。彼女はもうタロット使いではない、他の70億の魂と同じ、ただの人間に過ぎない。

「エティアさんがどれだけ苦労してきたかなんて、私には分かりません。分かるなんて口が裂けても言えません……1500年ずっと、罪の意識を抱えて生きるなんて想像もつきませんから……」
「だけど私は……殺されて当然のことをしてきたのです……。皆さんを騙して母子の罪を背負わせ、そればかりか世界じゅうの人々を……」
「もう考えなくていいんです、エティアさん。きっと、お母さんもお父さんも、同じ気持ちだったはずですから」
「そんなことは……」

70億の魂の潮流に変化が顕れたのは、その直後だ。遥か彼方を目指していた魂の群れは途端散り散りになり、上方から真下へ向けてゆっくりと落ちていく。
さながらそれは魂の雨だ。煌びやかな魂は本来在るべき場所へ、魂の器たる人体の中に戻るため、アイオーンからアストラルクス、さらにはその下方にある物質世界へ向けてゆるやかに降下する。
救世計画は頓挫した。そしてもう、二度と発動することはない。そのトリガーであるアイオーンタロットのうちの1枚――【世界】が消滅してしまったのだから。

「もう、終わりなのですね……」

エティアは降りしきる雨を眺めていた。だが、あかりの視線は雨の一粒一粒に注がれる。落ちてくる魂とは別に、昇り続ける魂を探していたのだ。

「いいえ、救済はまだ終わっていません」

エティアの手を引いて、あかりは飛び上がった。雨の中を逆行し、昇り続ける魂を見つけたのだ。
簡単な推論だ。救世計画が破綻した状況下で昇り逝く魂は、還るべき場所を失ったもの。それはすなわち、セフィロト顕現直前で命を絶たれた者の魂。

「せれな!」

昇る魂へ向けて、あかりは叫んだ。片手で魂を掴み、精神を集中する。ダエモニアの声が聞こえるなら、魂の声すらも聞こえるはず。元よりこのアイオーン空間では、そうした奇跡のひとつくらい起こせて当然。
そう信じ、再度魂へ向けて彼女の名を呼んだ。

――太陽あかり。あなたに妹を……るなを任せたい。

魂の言葉が、せれなの最期の声が、あかりの心に届いた。

「オ姉……チャッ……!!!」
「あかりさん、るなさんが来ます!」
「受け止めます!」

「せれな」の名に反応したのだろう、魂を探し回っていた獣のるながあかり目がけて突っ込んでくる。ひん剥かれた爪と牙で、せれなを捕らえたあかりを引き裂くつもりだ。
だが、あかりは避けようとはしなかった。真正面から突っ込んでくるるなに対し、大きく胸を開く。「刺せ」と言わんばかりのあかりの首筋にはるなの牙が、脇腹にはるなの両爪が食い込む。

「るな……ちゃんッ!」

だが、あかりはるなを抱き止めた。首筋を噛まれようと脇腹を抉られようと、決して離すことなく、しかとるなを抱きしめる。

「……見つけたよ、るなちゃん。せれなお姉ちゃんを……」
「セ……レナ……」

獣のるなは、あかりが掴んだ魂を見やって、ようやく落ち着きを取り戻した。「グルル……」と喉を鳴らしたまま、せれなの魂を見やる。

「……ごめん、やっぱり助けられなかった。せれなの戻るべき場所は、もうこの世にはないみたいだから……」

あかりが手を離すと、せれなの魂はまた緩やかに昇り始めた。雨の中を逆行する魂を、るなが追いかける。何度となく手に取って掴むも、魂は降りて来ない。ずっと上へ、上へ。現実に留まってはいけないと理解しているように、アイオーンの彼方へ向かっていく。

「るなちゃん、帰ろう」
「……嫌です」

獣から元の――人間の姿を取り戻したるなは、瞳いっぱいに涙を溜めていた。掴んでは逃げていくせれなの魂を追うたびに、こぼれ落ちた涙は雨のように降る。
偶然口に入ったるなの涙は、ひどくしょっぱく、苦かった。

「……わたしは、せれなお姉ちゃんと逝きます」
「だめだよ、るなちゃん。せれなはそんなこと望んでない」

魂の声を聞いた時、あかりは自分の責務を受け止めた。るなを救うと約束したのだから、最期まで守り通さなければならない。そしてそれは、せれなからの頼みでもある。

「そんなことは分かっています! わたしに生きてほしいのがお姉ちゃんの望みだってことくらい、わたしにも痛いほど分かる……!」
「ならどうして?」

るなは嗚咽混じりに叫んだ。

「わたしは……わがままなんです。お姉ちゃんにずっと側で見ていてほしいんです……。せっかく再会できた家族ともうお別れなんて……。それに……」

言い淀んだるなは、自身の【月】をあかりにかざしてみせる。まだらに光るアイオーンタロットは逆位置。ディアボロスタロットの性質を色濃く受け継いだものだ。

「わたしはダエモニアを生み出してしまうんです。こんなタロットがあかりさん達の近くにあったら……迷惑を掛けてしまうから……」

あかりは口角を上げて笑った。

「迷惑じゃないよ」
「だけどわたしは……」
「るなちゃん。私、るなちゃんも救うって言ったよね? だから、最後までずっと、るなちゃんを守るよ。せれなからも頼まれちゃったし」
「そんなの、虫が良すぎます……。皆さんに迷惑を掛けて、あかりさんを何度も傷つけて……そのくせ守られてばかりだなんて……わたしは、わたしが許せなくて……」
「いいんだよ」
「……よくありません! わたしは――」
「るなちゃん」

あかりはるなを抱き止め、耳元で囁いた。
ふたりにしか聞こえない短い言葉だった。

「あ、あかりさん……!? それって……」
「ちょっと恥ずかしいけど……。約束したからもう大丈夫だよね」

るなが動揺した刹那、せれなの魂は遥か上方へと昇っていった。

「ま、待って! せれなお姉ちゃん!」
「……もう届かないよ、るなちゃん」
「…………」
「……逝かせてあげよう。それがせれなの、最期の望みだから」

もう、誰にも手は届かない。追いすがろうとする妹を引き離すように。「在るべき場所へ還れ」と、言葉を発せない魂ができる唯一の意思表示であるかのように。
かくしてせれなの魂は、死人の待つ世界へと消えていく。

「……そろそろ、セフィロトも消えてしまう頃です。あかりさん、るなさん」

魂の雨が止み、昇るべき魂が消えると、がらんどうのアイオーン空間に亀裂が奔り始めた。時間切れだ。この場に残ることはできない。亀裂から漏れ出すわずかな光の中へ、今すぐにでも飛び出さなければならない。
あかりは最後の力を振り絞り、炎の刺突剣を作り上げる。が、これまでの消耗からだろう、把手から先を生み出すことができなかった。

「さすがに疲れちゃったかな……。もうチカラが残ってないや……」
「アイオーンに存在するだけで消耗してしまいますから。あかりさんはチカラをセーブする様子もありませんでしたし……」
「あはは、エティアさんとるなちゃんを助けることで頭がいっぱいだったかも……」

あっけらかんと笑うと、エティアとるなも釣られて笑っていた。

「……あかりさんらしいですね」
「ええ、とても」

その時だ。セフィロトはガラスを引き裂くような音を立て、崩壊を始めた。遙か上層、せれなの魂が旅立った場所が破裂し、粉々になったセフィロトの断面が降り注ぐ。

「アイオーンを閉じ込めていた壁が落ちてきましたね」

落下する大小さまざまな破片を見やって、エティアが静かに告げた。真っ黒な破片の軌跡は紫色――すなわち、落下した場所をアストラルクスへと塗り替えていく。破片の合間を縫って飛べば、セフィロト内部からの脱出は容易だ。
だが――

「もう、動けないや……」

あかりはエティアの手を引いている。彼女はもうタロット使いではなくただの人間だ。人間をアイオーン空間に留めるのは、並大抵の労力ではなかった。

「あかりさん、セフィロ・フィオーレの長エティアから、最期のお願いです」

あかりの瞳を見て、エティアはほほえんだ。

「手を離してくださいな。荷物がなくなれば、あかりさんは脱出できますから」

途端、セフィロトの亀裂が稲妻のように伝播する。崩壊は速まり、遙か下までひび割れが走った。巨大な黒い断片が剥がれ落ち、あかり達もろとも押し潰さんばかりに迫っている。

「迷っている時間はありませんよ。さあ、この手を……」
「エティアさん、それは命令ですか?」
「……ええ。私を置いて、帰還しなさい。太陽あかり、月詠るな」

あかりは手に力を込めた。絶対に離すものか、と強く握りしめる。

「絶対に嫌です!」

告げて、瞳を閉じた。
憔悴しきった頭の中で、これまでの日々が走馬燈のように駆け抜けた。永瀧で暮らしていた時代。冬菜を失い、タロット使いとなったこと。セフィロ・フィオーレでのダエモニアとの死闘。ケルブレムにさらわれたが、仲間達に救われたこと。
イギリスでの研修と新型ダエモニア事件。鈴掛みなととの死闘と和解。レグザリオの陰謀に救世計画、そして自身がすでに、生まれながらに対消滅を果たしていたタロット使いだったこと。

――私なら、やれる気がするんだ……。

心の声とも独り言ともつかないことをつぶやいて、あかりの意識は一点に集中した。
理由は簡単だ。
把手しかイメージできなかった炎の剣を再び燃え上がらせるためだ。
迫りくるセフィロトの断片を破壊し、アストラルクスに戻るためだ。
るなだけでなく、「私を見捨てろ」と言ったエティアも救うためだ。
そして何よりこの世界を救うためだ。あまねく照らす太陽のように。

「燃え盛って、私の太陽っ!!」

剣の把手から、猛烈な赤色の粒子が噴き出した。もはや剣ではなく、火。いや、業火とさえ呼べるほどの巨大な焔だった。
焔は眼前まで迫った漆黒の断片を焼き焦がす。セフィロトの残骸は端から徐々に消失して消えるが、すべてを焼き尽くすことはできない。実体を伴わない焔では、断片を砕くことができないのだ。

「焔を……剣にしなきゃ……!」

三度イメージを固めるも、焔の勢いは止められない。当然だ、あかりが想像した焔は太陽のフレアなのだ。太陽を飛び出すほどの焔の潮流を制御できるはずもない。

「ダメ……!」

あかりは、剣を持つ手が軽くなったことに気づいた。
まぶたを開けると、エティアとるなの顔があった。ふたりが、あかりとともに焔の剣を握っている。そしてるなの【月】と、エティアに残された力があかりの手に流れ込んでくる。

「るなちゃん、エティアさん……!」
「これが、先ほど耳打ちいただいた言葉へのお返事……です……」

頬を赤らめるるなに釣られて、あかりは急に気恥ずかしくなった。同じく手を繋いでいたエティアにも悟られてしまったようで、密やかに笑われてしまう。

「……ふふ、救世主ですね。あかりさん」
「わ、笑わないでくださいエティアさん……! 私は、マジメに言ったんですから……」
「ええ。なら私も……できる範囲で罪滅ぼしをさせてください」

3人分の意志が流れ込み、太陽フレアの無軌道な焔は本来の姿を取り戻した。
【太陽】のタロット使いに一子相伝で受け継がれる、燃える刺突剣。いつもとは異なる白い炎を纏い、ひび割れたアイオーンの薄暗闇を、太陽のように煌々と照らし出す。

「……じゃあ帰ろっか、るなちゃん。エティアさん。私達の世界に」

ふたり分の「はい」という返答に背中を押され、【太陽】の剣は巨大な断片に穴を穿った。
セフィロトは砕けた。散り散りになった破片の隙間から、見慣れた紫がかった空が見える。
あかりはふたりの手を引いて、アストラルクスへと勢いよく飛び出した。




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