「行くのか。寂しくなるな」
シルヴィアの別れの言葉に、エティアは遠慮がちな微笑みを返した。
セフィロト事件の収束から数日後。セフィロ・フィオーレ余津浜支部は、余津浜中華街の占い館を仮設拠点とすることになった。関係者が引っ越し作業に追われる中、ただ一人、エティアだけが旅立ちの支度を調え、占い館の裏手門に立っている。
「どちらへ向かわれますの? 皇家のスタッフを随伴させますわ」
「お気持ちだけで結構です。彼女が救った世界を、ひとりで見てみたいもので」
エティアは、普段とは違うカジュアルな旅装だ。携えたアンティークのトランクケースが少し浮いているが、着衣とバックパックを見れば、彼女が1500年の時を生きた者だとは誰も思わないだろう。
「じゃあ、お弁当だけでも」
万梨亜が手渡した笹の葉の包みをしげしげと眺めたエティアは、「おにぎりです」という言葉に安堵を見せる。
「ありがとう、万梨亜さん」
「お礼は作ってくれたマルゴットちゃんに……と思ったけど、今は忙しいみたいだから」
「赤字だーッ!!!」
占い館の中から、マルゴットの悲鳴が聞こえてくる。仮設支部への引っ越しは余津浜に限った問題ではない。拠点はすべてデュプリケートの襲撃に晒されたのだ。家計を握るマルゴットにとってこの状況は、世界が救われていようともセフィロ・フィオーレ始まって以来の悲劇だった。
「やはり私も、もう少し残ったほうがよいでしょうか。せめて支部が落ちつくまでの間くらいは……」
申し訳なさそうなエティアの言葉に、シルヴィアは苦笑する。
「ああ、できるものなら慰留するさ。皆エティアに離れてほしくはないだろう」
「だが」と区切り、シルヴィアはエティアの迷いを断ちきるように続ける。
「復旧に何年かかるか分からない。行方をくらませた逆位置達の捜索も、事件の発端となったオーキスや高取肇の遺した研究調査にしてもだ。見通しの立たない雑務で、今や貴重なものとなった貴方の時間を奪うことはできない」
「そういうこと。どうせタロット使いとしては使い物にならないんだし、好きに生きればいいわよ」
「もう少し言いようはありませんの、クリスティンさん……」
クリスティンの発言の通り、タロットを失ったエティアは普通の人間と変わらない。エティアの命には限りがある。
「暇を出すのは、我々からのせめてもの餞別。それと罪滅ぼしとでも思ってくれ」
「私達タロット使いは、貴方の抱えていた苦境に気づけなかったもの」
いつしか裏手門の上を漂っていたメルティナが告げる。引っ越し作業で手が離せない中も、エティアを見送る者達が次々に姿を現していた。次いで訪れたプリシラも、メルティナの発言に頷く。
「余生を謳歌しなよ。時間があっという間に過ぎることくらい、よく知ってるだろう?」
「ですが――」
「あまり引き留めてやるな」
渋っていたエティアの許に、現セフィロ・フィオーレの長――アリエルが現れた。タロット使い達の輪に割って入り、エティアと顔を近づける。
「アリエル、あなたには世話をかけるわ。すべて任せてしまうなんて」
「お前が居なくなったところで世界は回る」
厳しい口調だが、固く結ばれたアリエルの唇はわずかに震え、瞼は閉じられている。彼女の心境は――敢えて厳しい態度をとる理由は、その場の誰もが理解していた。
「……ありがとう、アリエル。後を頼むわね」
アリエルは何も言わず、踵を返して仮設支部の中に戻っていった。短い会話ですべてを理解したのだろう、エティアも振り向いて、支部の外の世界――平和を謳歌する人間達の世界に目を向ける。
裏手門の敷居を一度またげば、再び足を踏み入れることはない。
「皆さんも、お元気で」
敷居をまたぎ、路地へ。人混みに紛れてエティアは消えた。後ろ姿を見送ったタロット使い達は一様にため息をつき、無理に笑った。
「彼女の人生に幸多からんことを」
呟いたシルヴィアの眼前に、クリスティンがスマホを近づける。画面上の地図アプリには余津浜を歩くような速さで進む青い点が映っていた。
「発信機か。油断も隙もない女だな……」
「私の発案ですよ、シルヴィアちゃん。クリスちゃんにも協力してもらって」
「居場所が分かった方が安心でしょ? 貴方のも貸して、設定してあげる」
エティアはセフィロ・フィオーレを去ったが、消えてしまった訳ではない。連絡を取ろうと思えばいつでも逢えるのだ、彼女の時間が許すうちは。
シルヴィアのスマホにも、余津浜を進むエティアの姿が映った。角煮まんの名店の前で青い点が止まっているのは、エティアがタロット使いの重責から解放された証なのだろうとシルヴィアは思う。
「そう言えば、ツイングラムにヴァネッサがポストしてたわよ」
「本当か、メルティナ」
今度はメルティナがスマホを見せる。ジオタグはイタリア、シチリア島。救世計画の最中に行方不明になったヴァネッサは、今は欧州各地を動き回っているらしい。
「迎えに来いってことじゃないかい?」
肩を竦ませて笑うプリシラの言葉に、シルヴィアは自らのスマホをしげしげと眺めた。そして、重たい唇をゆっくり動かす。
「……私に、これの使い方を教えてくれないか?」
支部の裏手で、少女達の笑い声の花が咲いた。
* * *
「余計な連中は片付いたかニャ?」
崩壊した白亜の間を訪れた猫目の少年は、三名の女性に声をかける。仮面で顔を覆っていた三名のうちの一人が仮面を打ち棄て、静かに笑った。
「お待ちしていましたよ、我が盟友。ようこそレグザリオへ」
残りの二名も仮面を取り去る。少年の背後から現れた男性と併せて五名が、レグザリオ評議会の象徴たる円卓に坐した。
「我々を離反させ、レグザリオの思想を統一してから始末する。なかなかに悪趣味なシナリオを描いたものだ、さすがは元セフィロ・フィオーレの始末屋だな」
「まぁ、計算違いもあったみたいだけどねぇ。霧依さんは驚きだよ」
「ルーシア、エレンは独立、クリスは引き抜かれた、っと。カリスマ性ゼロ乙www」
「構いませんよ。必要な駒さえ揃っていれば」
告げて【悪魔】のアイオーンタロットを懐から出し、上下をひっくり返して逆位置であることをその場に示す。
「救世計画などにかまけた、古きレグザリオは絶えました。我々はここに本来の……タロットによる人類の進化を追求する者として、新たなるレグザリオを組織します。意義のある者には、この場を去っていただく」
五名は同意の意を拍手で示す。円卓を離れる者は居なかった。
「それでは始めましょう。人類の救世主たる我々レグザリオが果たすべき責務を」
* * *
鎌にべっとりと付着した怨嗟の霧を消し飛ばし、ルーシアは戦闘を終えた。敵は【塔】をコアとしたダエモニア、すなわち逆位置アイオーンであるエレンから生み出されたものだ。
「ワリィな、ルーシア」
エレンもルーシア同様、武器を下ろした。ディアボロスの性質を継いだ者は、自らの意志とは関係なくダエモニアを生み出してしまう。逆位置アイオーンとなってしまった者が背負う宿命だ。
「私たちも、いずれはエレンさんのように……」
「…………」
同行していたるなとせいらも、同じように肩を落とす。彼女らふたりも逆位置だ。
ディアボロス・タロットは消失したものの、逆位置アイオーンが残っている限り、ダエモニアは絶滅しない。
本来ならディアボロスとともに消滅するはずのダエモニアは、アリエッティでさえ想定できなかった逆位置アイオーンのために生きながらえている。
ルーシアは思う。
対消滅で元を断たれてしまうはずだったダエモニアを保護することが、メーガンの狙いだったのではないか。
「…………」
だが、考えたところで意味はない。もはやメーガンはルーシアの上司ではないし、興味のない人間を恨み続けるのは無駄な労力だ。
目下の問題は、それよりも――
「ホント、アタシのせいで手間掛けちまったな。悪かった、ルーシア」
「……死ねばいいのに」
逆位置に堕ちてエレンの態度は様変わりした。エレン以外も同じ。自らの意に反してダエモニアを生み出してしまうことへの後ろめたさが先に立つ。これがルーシアにはあまりにも鬱陶しい。
「そっか、ワリィ」
「…………」
まるで葬式だ。こんなのエレン・ライオットじゃない。
ルーシアはエレンの襟首を掴み、睨みつける。
「……ロッカーなら後先考えるな」
「いや、でもよ……」
ルーシアはタロット使いを見渡す。この場の逆位置アイオーンは3名。エレン、るな、せいら。他の3名――シャルロッテ、舜蘭、ぎんかは正位置、エレメンタルの性質を受け継いだアイオーンだ。
ダエモニアを生み出す22枚のディアボロスは、現在では当初の半分以下だ。発生頻度はさほど変わらないものの、殴って斬ればダエモニアは死ぬ。対処法は変わらない、数百年やってきたのと同じことだ。
「あたしが全部殺す。新人部隊のぶんも全部」
「……ナヨったポップスやってる場合じゃねえな! やっぱ最高にロックだぜ、ルーシア!」
「好きにして」
「おう!」
エレンはわずかにでも無駄なやる気を取り戻したようだった。残る逆位置のるな、せいらも多少、勇気づけることができたかもしれない。
「じゃあ私のぶんも任せた、ルーシア!」
「死ね」
言うが早いか鎌を出し、ルーシアはシャルロッテに斬りかかる。無益な争いをぼんやり見つめていた舜蘭は、新人部隊のうちのひとり――太陽あかりが欠けていることに気づいた。
「あれ? あかりはどこに行ったの」